中学時代からの友達が亡くなった。
最後の最後まで、病院での闘病生活を送った。20年前にガン摘出手術をして、健康になったと本人も思っていたが、半年前くらいに再発したようだ。風邪をこじらしたまま、熱が下がらず微熱が続いて、近所の医者からは「再発」の言葉はなかった。本格的に病状が悪化して精密検査してもらった時は手遅れだったようである。その時彼は20年前に手術を担当した医師のところへ遠方にもかかわらず転院した。その医師は病院長を務めていた。彼しか信じられなかったんだろう。そして、最後まで闘病生活を貫いた。
入院すると言うことは、助かる可能性を信じての事である。
助かる可能性が全くなければ、味気ない闘病の入院生活をするわけがない。残された時間をもっと大切な事に有効に使うだろう。それをせずに、闘病生活を選択したと言う事は、彼は生き続ける可能性に賭けていたのだろう。どんなに可能性が低くてもその可能性に挑戦したのだろう。そのような意味では素晴らしい生き方だったし、最後まで諦めない事を我々に教えてくれたし、最後まで諦めないで人生を全うした事になる。
そんな彼のひたむきな生き方を受け止めて、
彼の主治医は最善の努力をした。たぶん、努力をせざるを得なかっただろう。しかし、主治医が最善を尽くせば尽くすほど、彼には大いなる試練と苦痛が待ち受けていた。それでも彼は耐えた、耐え続けた。私には全身(体外も体内も)が苦痛を感じる感覚を想像する事ができない。彼はそれに耐えて病床をのたうちまわった。生きるために・・・。
医師は少しはそんなことを考えて欲しい。
少なくとも、金勘定で金儲けのために治療をして欲しくない。利益に目を向けないで患者に目を向けて欲しい。患者を食い物にする医者なんて絶対許せない。医者が生きる可能性を追求しようとしないで、ただ単に金儲けのために治療を続けることは殺人者、殺戮者以上の強制収容所に送り込むナチスの行為に等しいと私は思う。
確かに、生きる可能性が全くないと言い切ることは不可能であろうが、
だからといって、手当り次第の治療をすることは許されそうにない。最小限、生きる可能性に向かっての治療であるべきである。そして、生きる可能性のための治療が尽きたら、別のアプローチに切り替えるべきである。当然、患者と相談してのことではあるが・・・。そうすれば必要のない試練と苦痛の闘病生活とは別の余生の過ごし方があるのではないかと思う。私はそうして欲しい。
友の死に対して異議を申し立てるつもりはない。
最後まで闘病した友の生き方も立派な生き方であり尊敬する。その友の生き方に対し最大限応えてくれた主治医に対しても敬意を表する。そこにはたぶん利益を超越した心と心のつながりがあるのだろう。それが金儲けの商売のためだと言ったら絶対許す事ができない。世の中、カネ、かね、金、と血眼になっているが、死を前にしてカネなんて何の意味もない。
カネを口にしただけで、死とは別次元の話になってしまう。
当然、生きる事とカネも直接は関係ない。人間は生きている間はそれに気が付かないだけである。カネなんて信用の一時的な証に過ぎない。普遍の信用さえあればカネなんて要らない。信用は人である。人を前にして本当の信用を金で買うことはできない。買えるのは単なる単純労働か見せかけの偽善だけである。人はそれに気付いていない。
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