通勤は地下鉄である。
駅を降りると地上まで歩かないといけない。通路は左側にエスカレータ右側に階段がある。通勤客はほとんど左側のエスカレータに集中し行列をなしているが、右側の階段はほとんど無人である。私は混雑したところが嫌いなので右側の階段を昇る。無人の広い階段の中央を左側に混雑するエスカレータの人々を横目に堂々と登るのは気持ちのいいものである。結局はエスカレータよりも先に着く。これも優越感を持つ一瞬である。
自分では体力トレーニングのつもりでいるので何の苦にもならないが、
そうでない人にとっては少しでも楽をしようという思いしかなくエスカレータに集中するようである。ぞろぞろとエスカレータの昇り口に集まる姿を見ていると砂糖にたかる蟻のような異様な雰囲気を感じる。毎日これを繰り返して、何人の人が階段を利用するようになるかを楽しみにしている。別に何を言うわけでもなく、行動で示すだけでどれだけ影響力があるかのたった一人の実験である。数ヶ月後が楽しみである。すでに何人かが階段昇りをはじめている。
私は通勤電車で座席に座らないと決めている。
これまたエスカレータ、エレベータを使わないのと同様、筋力トレーニングのつもりで居る。しかもつり革にも手すりにもつかまらないで立つことにしている。イメージ的にはスキーやスノーボードに乗っているか、サーフィン気分である。電車の揺れもスリルとバランス感覚養成のための楽しみとなっている。
「カーブのため揺れますのでご注意下さい」との車内アナウンスで、
どんな揺れがくるのか期待感を持って待ち受けている。最初から座らないと決めると気楽である。席取り合戦や場所取り合戦をしないで済むし気持ちにゆとりができる。脇目もふらず我先に席取りや場所取りに走るのは端から見ていてみっともないし、やろうとも思わない。さはされど、2時間以上立ちっぱなしを強いられれば少しは考えてしまう。
今は、30分だから我慢できる限度である。
反対に言うと、健常者で健康な普通人は1時間以上かかる人に席を譲って30分くらいだったら我慢して立っていろと言いたい。当然、老人や体の弱い人やお疲れ気味の人には誰であっても積極的に席を譲るべきである。電車の中で必死の席取りゲームが始まるのは、結局我慢できる限度以上に無理して長距離通勤しているか、日常生活に疲労困憊して30分でも休養したいと思っていることに起因しているのだろう。
無理が高じると余裕がなくなり、
余裕がなくなると他人を思いやる心がなくなる。他人を思いやる心がなくなると益々競争心が増幅して我先に他人を出し抜く行動が常態となってしまう。結局都市は日に日にぎすぎすした空間に変質してゆく。
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