常識とは何だろう?
不思議なことに、常識とは普通の一般知識であり、専門知識ではない。一般人が知識として理解し適宜の処置ができる能力である。そう考えると、常識とは普通の一般的な感覚と理解力と判断力と行動である。それなのに、このごろでは専門知識に偏りすぎている気がしてしょうがない。確かに専門知識は最先端の知識で、信憑性も高く信頼できるが、一般人が理解できずにただ盲信するだけのものでは「常識」とはいえない。
ジェフ・ベックと言う有名なギター奏者が亡くなった。
超絶技巧を使って先端的で独創的な演奏で一世を風靡したが、本人は一般の普通の人を喜ばせるような音楽ができなかったことを晩年悔やんでいたと聞く。「POPS」という音楽ジャンルがあるが、正確には「Popular Songs」で、一般普通の人に好まれて歌われる歌である。日本語で言うと「民謡」である。民謡のように昔からずっと歌い継がれてきたものが「POPS」である。ジェフ・ベックは晩年イギリス民謡をよく歌っていたそうである。
そんなことを考えると、
「POPS」「POPS」と世の中に流行っている歌を眺めてみると、果たして10年後、100年後に歌い継がれて愛唱されているか疑わしいものである。「POPS」になってほしいという願望を含めて「POPS」のジャンルで売り出しているのだろうか。その結果は10年後、100年後にしかわからない。そして、少なくとも10年前、100年前からずっと歌い継がれているのが本当の「POPS」である。「常識」もそんなものではないだろうか・・・。「常識」は決して新しいものではないし、先輩や過去の先達たちから学ぶものでもある。
専門知識は確かに最先端である。
しかし、それは10年後、100年後にも同じように価値が認められているかは疑問である。過去の最先端の専門知識が果たしてどれほど「常識」として残っているのだろうか?「常識」は個々の専門知識ではなく、個々の専門知識を統合した概念として残っているのだろう。「常識」も日々少しずつ進化しているようである。そうであれば、我々は手っ取り早く専門知識に飛びつくのではなく、過去営々と築きあげられてきた「常識」を大切にしたいものである。そして、この「常識」を子々孫々に伝えてゆくことがさらに重要なんだろう。
常識の反対は非常識ではあるだろうが、
常識の反対は強制だと思う。善でも悪でも強制されることは常識から外れてしまう。誰にも強制されない中立の立場の普通のことが「常識」だと思う。強制されないということは個人の自由な判断に委ねられていることである。この状態が理想なのだろう。プラスでもマイナスでもないニュートラルな状態である。そして、「常識」は個人の感覚と理解力と判断力と行動の結果の積み重ねで、周囲の他人に評価されながら育ってゆくものである。この「常識」の立場を維持することは困難でもある。安易に周囲に妥協すると「常識」は主体性をなくす。
常識に生きることは素晴らしいことである。
専門的な知識は必要ないし、そのまま一般普通の人達に理解してもらえるし、喜んでもらえる。常識的な一般普通の人がやっているんだから、一般普通の人に受け入れられるのは当然である。しかも一般普通の人にしかできないことでもある。私は専門的な知識も専門的な技工も能力もないし専門的な思考もできない。しかし、これが最強の武器かもしれない。世の中の大勢は一般普通の人達なんだし、この人達を相手にいろんなことが自分の能力の範囲でできそうである。その可能性は大きい。これからの人生、大いに「常識」を生かして活躍したいものである。
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