我が国周辺の歴史を見てみると、
日本と国交のあった主要な国は、古くは中国や朝鮮半島であり、ロシアであり、ヨーロッパ各国であり、近くはアメリカである。日中、日韓、日清、日露、日独、日仏、日英、日伊、日米などと漢字で両国間を表現して違和感が少なければ昔から日本と国交が深かった国と見ていいだろう。
ところで、いつから日本はアメリカ一辺倒になったのだろう。
このアメリカ一辺倒が果たして独立国として正常なのであろうか、疑問を感じざるを得ない。日本にあふれる情報はほとんどアメリカ寄りである。アメリカが風邪を引くと間をおかず日本も風邪を引くとからかわれるくらいに日本はアメリカにベッタリである。私に言わせるとこれも戦後の後遺症である。第2次世界大戦の敗北以降日本はアメリカの属国となり現在も実質的にはその保護下にあると言っても言い過ぎではないであろう。
ずっと昔は日本の文化はほとんどが中国に由来するものであった。
江戸の鎖国時代には長崎の出島から細々とヨーロッパ文化が入り込んでいた。アメリカとおつきあいが始まったのはペリーの黒船来航からである。それでも開国された後も明治、大正、昭和の日本の文化はヨーロッパを向いていた。アメリカの影響を大きく受けだしたのは第二次世界大戦に敗戦した直後からである。アメリカとのおつきあいは、たかだか半世紀そこそこであり、日本の長い歴史からするとほんのちょっとという認識が正しいのではないか。
戦前は、「外国かぶれ」と言えば、フランスかイギリスであったという。
明治維新後は鹿鳴館に代表されるようにヨーロッパの文化が取り入れられてきた(この文化は一般庶民まで完全に浸透するまでには至らなかった)。大正、昭和の時代もアメリカは軽蔑の対象でこそあれ、尊敬も憧れも感じない建国間もない新興国に過ぎなかった。それが、敗戦後は闇市を通じて一般庶民にまでアメリカがいきなり入ってきて、世を挙げてアメリカ一色になってしまった。しかもその文化は進駐軍の文化である。現在は若者の街として脚光を浴びている「原宿」「六本木」は何を隠そう戦後の進駐軍の町である。コカコーラやハンバーガー、フライドチキンも進駐軍の文化そのものである。
「敗戦」とはすさまじいものである。
これほど手のひらを返す如くにこれまでの歴史と伝統と文化を捨てて戦勝国に適応しなければならなかったのである。これに耐え抜いた諸先輩には頭の下がる思いがするし、この無念さによる反動が今日の日本の繁栄を産み出したのであろう。しかし現在も日本はアメリカの傘下、保護下にある印象は拭えない。戦後半世紀以上を過ぎているのである。そろそろ一人立ちをする時期に来ているのではないかと思うがどうであろう。アメリカだけを向いている姿勢から、自分の足下や周囲はもちろん、アジア諸国、アフリカ、ヨーロッパ、豪州や南米などにも目を向ける努力をして行かねばならない。当然、日本から手を伸ばすだけでなく、相手国からも手を差し伸べてくれる関係を作らねばならない。
国際化の時代と騒いでいるけれども、
日本として具体的かつ有効な政策を見たことがない。いつものごとくかけ声だけである。国際化を担っているのは個人レベルの能力であり、国策としてはこれに期待するしかないのが現状であるようである。それでは国際化を担っている人達がその実績を認められ、正当に評価されているかというと、そうでもないようだ。江戸時代の譜代大名と外様大名みたいな関係で、あくまでも海外で活躍している人は外様扱いである。いわゆる「エリート」は譜代大名の如く国内で人脈形成と中央行政に専念し中央集権の一翼を担うことになる。
健全な独立国を目指すならば、
海外の拠点には優秀な人材を配置し、最新の正確な情報を入手すると同時に、日本を理解してもらうために積極的に情報発信する努力をしなければならない。また、国内のいわゆる「エリート」は国際化を目指すなら、積極的に海外勤務を経験して国際的なセンスを磨くべきである。狭い日本の中でチマチマとやっていてはそれこそ国際化の波に押し流されてしまう。海外の拠点数も少ないし、その人数もお粗末なものである。情報収集力も乏しくほとんど現地のマスコミで報道されている内容の域を出ない情報にとどまっている。しかも、海外の出先の主任務は日本からのお偉いさんの海外研修のための調整の雑用に振り回されているのが実状だそうだ(経験者の弁による)。
海外の日本大使館に与えられる権限も制限されている。
大使館は日本代表としての権限がなければ何も意味がない。これを島国根性の中央集権で牛耳っていたのでは諸外国からそっぽを向かれてしまう。海外の大使館は自国の利益のために日々戦争をしているようなものである。海外を見渡せば世界平和とか地球環境とか博愛主義、平等主義とかを声高らかに唱えてはいるが、これは世界各国が努力を指向するための目標を掲げているのであって現実の施策は国と国との利害がからんだせめぎ合いであり、まずは自国を有利にするために各国は日々戦っているのである。
戦うためには自国の主張をはっきりさせなければならないが、
日本の国は「顔が見えない」「理解できない」「あやふや」「支離滅裂」「分裂症」「依存症」「卑怯者」「弱虫」などの印象が強い。これでは戦う前から頼りなくて相手にされないか、不気味で相手にしたくないと思われるのが関の山である。態度をはっきりしないで有耶無耶のままにして自然の流れに任せていてうまくいっているのだから問題ないという自分勝手な見方もあるが、諸外国はこの日本のやり方を理解できないし、かえってイライラして腹を立てているのではなかろうか。
都合の悪いところは逃げて、
おいしいところだけをつまみ食いしている、または、汚いところは目をつむって、きれい事ばかりを並び立てている感覚は拭いきれない。日本人は金は出すが血と汗は出さないと言われる由縁である。「無手勝流が日本のやり方です」と世界にはっきり宣言して態度を徹底すればまだ救われるが、そうでもなさそうなありそうな八方美人的な態度を続けているのが現状ではなかろうか。
日本の周辺を見回して地理的なお隣さんはどこの国なのであろうか?
我々一般市民は「向こう三軒両隣」がお隣さんとして近所づき合いをする基準になっているが、日本の国はどこの国をお隣さんとしてつき合うべきであろうか?どう考えてもアジア諸国は「お隣さん」であろう。しかし、このアジア諸国と緊密なおつき合いをしているとは到底思えない。アメリカとの関係と比較してみれば明らかである。「近くの親戚よりも遠くの他人」とでも言うのであろうか?白紙的に見てもおかしな状況になっているのは間違いない。
アジア諸国と緊密なおつき合いができないのは、
やはり「戦争の後遺症」であろうか。戦争で日本がアジア諸国に進出もしくは侵攻して害を及ぼした苦い歴史がある。このしこりがまだ残っているのであろうか?これも日本が態度をはっきりしないで有耶無耶にごまかしたためにいまだに尾を引いている典型的な一例である。外交はデリケートな部分もあるだろうが、基本的には「私が悪うございました償いは致します」と謝罪して罪の償いをし、一刻も早く相互の関係を改善するよう努力するのが筋であろう。戦後のどさくさに紛れてまたはアメリカの背後に隠れて有耶無耶にしたために「けじめ」も「片」もついていない。
近頃は、このアジア諸国を
日本国内で「発展途上国」呼ばわりしている風潮があるが、思い上がりも甚だしいという感覚を抑えきれない。日本国内の中央集権の利権の絡んだ補助金バラ蒔き体質をそのまま外交に持ち出したような感じを持つ。「援助を与えれば日本になびいてくれるであろう」「日本の言うことを利かないと援助しないぞ」とでも言いたげな発展途上国への援助である。
日本はもっと謙虚になるべきである。
国際社会では相互援助もしくは相互利益のための援助が一般的であろう。片務的な一方的援助は一時的(災害や戦争などの時)にしかあり得ないと思う。アジア諸国を日本の国の大切なお隣さんとして対等につき合って行く感覚が必要ではないか。そのためには人の交流、情報の交流、文化の交流が必要である。
日本国内を見回すとアジア諸国の人も情報も文化も充分理解されているとは言えないし、
日本から積極的に人や情報や文化を発信して理解を図っているとも言えない。お隣さんでさえそうであるから、ヨーロッパやアフリカや南米や豪州も同じような状況である。あっちもこっちもアメリカ漬けである。しかも、日本が自分から一方的にアメリカ漬けになっているだけで、アメリカは日本を世界の中の極東に浮かぶひとつの島国としか認識していない。決して日本だけを向いているわけではない。
日本で見る世界地図は日本が中心になっているが、
世界の世界地図では日本は右側の端っこにポツンと配置されている。「極東(東の最果て)」と呼ばれる地域のさらに最東端に位置しているのが日本である。国際化を唱えるならば、地球儀のひとつでも買って日頃から正常な世界観を養う努力をしたいものである。決して日本中心に日本に注目して世界が動いているわけではない。誤解のないように・・・。
日本は異質なものという認識が世界各国で語られているが、
その実態は国際社会において未熟なだけである。日本人の特性によるものもあるだろうが、はっきり言って「大人になっていない」「自立していない」と言うことであろう。独り善がりで相手のことを考えない。自分さえよければ、儲けさえすれば、恥も外聞も捨てて、常識も節操もなく、ただひたすらに勤勉に走り続けている。自国が世界の中心であるなら、諸外国もそれぞれが世界の中心である。自国の自尊心を大切にできれば相手国も尊重することができる。自国の主張をはっきりと唱えれば世界の中の自国の位置や立場が明確になってくる。
まず、はじめるべきは、
日本という国に誇りと自信を回復させることであろう。戦後後遺症の弊害を謙虚に認めて、自ら改善し、世界の常識に照らしても正常な国家を築くことであり、日本固有の特性を個性として発揮するなら世界に向かって理解してもらうための努力をしなければならない。世界に羽ばたく前に自国内を改革しなければならない。外面(そとづら)と内面(うちづら)が一致していない国なんて信用されるわけがない。世界は別に存在するのではなく個々の国々の延長線上にある。
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