オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

談合、斡旋、忖度、水面下への偏見

2017年04月02日 | Weblog


談合、斡旋、忖度、水面下は日本社会に独特のものらしい。

 これらの言葉は、この頃ではすべて悪い意味でつかわれる。これらの行為はすべてやってはいけない行為だと厳しく追及する人達がたくさんいる。果たしてそうだろうか?このような行為を全く行わないで物事が円滑に進むとは到底思えない。談合にしても斡旋にしても忖度にしても水面下にしても良いものと悪いものがある。悪いことはたとえどんな手段を使っても悪いのであるが、いいことをするためにも談合、斡旋、忖度、水面下が必要である。すべてをガラス張りにして事が進むとはどう考えても思えない。事前の密室の打ち合わせがすべて悪いと言われたら何も始まらないような気がする。そして、密室での打ち合わせの中身は良いことも悪いことも含んで検討され、自由闊達な議論が可能なのである。この段階を全てなくしたら最良の結論に至ることは未来永劫ない。その場限りのやっつけ仕事か成り行き任せの仕事しかできなくなる。

ババ抜きのゲームを考えたらいい。

 衆人環視の中でババ抜きをやって、すべて手の内がバラされたのではゲームにならない。手の内が解らないからゲームが成立するのである。そして結果として勝負が決まる。その際に相手の手の内を途中で直接覗くことは反則であり、当然相手に見られないように注意をしてゲームは進行する。これを周囲にいる人達が後ろから見てジョーカーの在処を逐一報告したら全ては台無しである。招かれざるジョーカーを持っている人が悪いわけでもないし、そのジョーカーを相手に引かせることが悪いことでもない。全てが公平な状態で相手をポーカーフェイスで騙して勝利を得るのがこのゲームの真髄である。「全てをガラス張りにしろ」と主張する人達は、衆人環視の中のババ抜きを目指しているような気がする。そして、物事は頓挫して前へ進まなくなるし、本質から外れてゲーム自体が成り立たなくなってしまう。

例えば、入札する場合、

 最初の情報収集と相互調整は談合と言えば談合である。しかし、入札価格そのものを不正に事前に談合しない限り、入札そのものは成立する。最終決定に至る良い談合を繰り返して、入札で契約者を決定するのであろう。悪い談合とは、共謀して落札価格を吊り上げたり、他者を排斥したり不正に占有したりであろう。その事実がない限り不正な談合とは言えない。入札そのものは価格競争であり、契約内容の良否や信頼性・実績を検討した結果である。そのためには自由競争入札だけでなく指名競争入札や随意契約も必要となる。そして当然、事前の良い談合も必要になる。一方的に情報を提供して何の事前調整もなしに自由競争入札の結果で契約するのが最良の方法であるとは大いなる間違いである。はっきり言って、より良い仕事をするための努力を何もしていない。ただ単に形式的な手続きを行っているだけである。

斡旋も必要である。

 「天下り」という言葉も悪いことの象徴みたいになったが、天下りにも良い天下りと悪い天下りがある。上位の組織から下位の組織へ人材を斡旋するのが天下りであろうが、相互に利益があれば良い天下りであろう。ただこの仕組みを悪用して、意味のない不正な天下りと不正な利益を追求するから「天下り」が悪者になるのである。天下り先で天下り元の経験と能力を生かして活躍してくれれば、相互に物事が円滑に行くはずである。無能な人材を天下りの制度を利用して人事とは関係ない条件付きで斡旋するから問題なのであり、その条件の履行そのものが不正行為である。無理な天下りの受け入れがより良い条件の獲得に寄与していることそのものがおかしいのであり、天下りそのものがおかしいのではない。そしてより良い天下りを実行するためにはより良い斡旋が必要である。しかし、公務員については天下りの不正の対策として斡旋をすべて禁止してしまったため、自由な人事交流ができなくなった。考え直すべきだと思う。不正な天下りを摘発すべきであって、天下りという人事交流が円滑にできるような環境を整えるべきである。

忖度も必要である。

 忖度のできない人は、気が利かない融通の利かない想像力のない状況判断できない人でもある。忖度が悪いわけでもないし、私の周りを見ても忖度だらけである。上から言われたことをただ忠実に正確に実行する人が優秀な人ではない。それを自分のものとして、自分なりに考え、より良い成果を出すためにどうすべきかを考え最善の策を実行するのが優秀な人である。そのほとんどは忖度である。忖度の部分は上からいちいち指示・命令されたものではない。日本独特の忖度の悪いところは、責任の所在が不明確なことである。いちいち指示・命令したわけでもなく、自分で判断・決心して行動するのである。大きな方針は逸脱しないだろうが、個々の各人の行動の責任は不明確であるし、後で責任の所在を証明しようとしても不可能に近い。そして各人の行動の集大成が一つの方向に進んでゆく。その方向に沿わない人は忖度できない人として悪い評価がなされることとなる。下手をすると日本の社会は結局忖度競争ではないかと思う。そして訳の解らない空気によって流されてゆく。

水面下も必要である。

 水面下とは自由闊達な議論を可能とする。自由闊達な議論に責任を持たせると、議論は萎えてしまう。「お前はああ言ったじゃないか」「前に行ったことと違う」「賛成なのか反対なのかはっきりしろ」とか言われたら何も言えなくなる。結論ありきで議論しているわけでもなく、自分でも結論が見えない状態での議論なのである。途中で決心変更もあるし、修正もある。そう言う状態での自由闊達な討議なのである。そこに一方的な強制をしたり、多数派の横暴があったり、外部からの圧力があったりでは議論の結果は正しいものとはならない可能性がある。そういうものを排除したのが水面下の議論であり、その議論の結果そのものは決定力を持たない。そして、水面下の議論が尽くされた時点で最終的な公開の正式な会議があって、その場で水面下の議論でなされた各種の意見を戦わせて正式の結論に至るのだろう。

「談合」「斡旋」「忖度」「水面下」を有効に機能させるには、

 善悪も多数派も少数派も積極派も消極派も優秀な人も優秀でない人も大いに事前の議論を尽くして、最終的には正式の会議または入札で結論を導き、その結論を決定し、実行することである。この時の結論については責任をもって説明できることである。何となく成り行きに任せて多数決の結果この結論となりましたでは済まされないのである。何故、どういう理由で、どういう思考過程で、どのような環境下で、どのような経過で、どのような必要性があって、科学的・道徳的・倫理的観点から現時点での妥当性をしっかりと説明できなければならないし、周囲に対して説得し納得できる内容でなければならない。それさえできれば「談合」「斡旋」「忖度」「水面下」がどんなにあったとしても何も問題ないはずである。問題は結果に対してしっかりとした説明責任が果たせないことであって、その過程や手段に問題があるわけではない。いろんな事象に対し問題が露呈しているのを観察すると、自由闊達な論議をする前に既に結論ありきだったリ、中途で訳の解らない圧力がかかったり、周囲の意見やメディアの動向に影響されたりしてしまうことが問題なのである。


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