何故他人の目が気になるのだろう。
考えてみると、自分に自信がないことである。たぶん、他人が見たらおかしいと思うだろうとことを実践している時に他人の目が気になるのであろう。そうであれば、他人が見ていてもおかしいと思わないことを実行していれば他人の目は気にならないだろう。しかし、悲しいかな、何が他人が見ていてもおかしいと思わないかと判断することは明確には解からない。それほど自分と周囲の他人には認識の差があり、その基準には乖離がある。だから他人の目が気になるのであろう。
でも、よく考えてみると、
自分でどう考えても他人が見ておかしいと思うことは実践しないことが必要なんだろう。少なくとも犯罪的行為や他人に害悪を及ぼすことはやらないことである。そうすれば、ほとんどのことは他人の目を気にする必要はなくなる。堂々と自信をもって信念に基づいて思った通りのことを自由に行動に移すことができる。そうは言っても、やはり他人の目は気になるものである。それほどに自分と周囲の他人とは意識と価値観が一致しないものである。常に不安をもって恐る恐る自分のやりたい事を実行している自分がいる。
プライバシーという領域がある。
プライバシーを主張する人は、ある意味で自分に自信がなく、他人が見たらおかしいと思うことを実行しているのだろう。そうでなければ他人から中傷や指摘を受けても堂々と反論し自分の主張を通すことが可能なのであろう。そうでないと言うことは、プライバシーを主張する側にも問題を含んでいる。何にもないところに言いがかり的な中傷や指摘を受ける場合もあるだろうが、それは正当に反論すればいいだけの話である。いちいち反論するのが億劫であると言うなら、プライバシーの主張もあるかもしれないが、どちらかと言えば後ろ向きの対応でもある。
プライバシーを侵害する側にすると、
中傷や指摘の対象を見て見なかったものとして無視する自由もある。プライバシーの本質としては見なかったことにするのが本来の考え方であり、見ても見なかったことにするのがプライバシーの本質である。そうであれば、敢えて中傷や指摘を行うと言うことはプライバシーを侵害する側にも何らかの意図があってのことである。その意図が善意でなく悪意であればその行為は本来であれば許される行為ではない。そんなことを考えると、世の中に発生しているプライバシーに関することには悪意に満ちたものが多すぎる気がする。
日本のことわざに「火のないところには煙が立たない」とあるが、
故意に煙を立てて火の存在を立証しようとする人達もいるのである。煙だけが火の証拠にはならないし、煙だけではどのくらいの火なのかはわからないのである。ボヤでも大火でも煙は出るし、そのあとどれほど大火事になるかは「煙」だけではわからないのである。フェイクニュースというものもあるが、まさにほんのちょっとした「煙」をいかにも大火事になると思わせるための手法でもある。大いに警戒していろいろな情報に接する必要があると思う。
私は、
周囲の他人が気になる時には、何か悪いことをしているのではないかと反省する材料としている。しかし、反対に自分に何の非もなく自信が持てるのであれば堂々と行動を起こしている。この時に「他人はどう思うのか」と思っていては何もできなくなる。ところが、一般の人達はやはり「他人はどう思うのか」と気にしているようである。この考え方は変えていったらどうですか?日本国中がこの見えないしがらみに縛られている気がする。どれほどの創造的な発想が制限されているのだろうと危惧するものである。
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