オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

指導的立場

2007年01月06日 | Weblog

この頃、自分で直接仕事をしない自分をよく見つける。

 誰かに仕事をやらせて、その人を指導し間接的に仕事に携わるやり方が続いている。たぶん、指導的な立場に立つ機会が多くて、いつのまにか恒常化して当たり前の習慣になっているのだと思う。反対に自分ではやろうとしない自分がいることも確かである。「部下を育てるため」「組織で仕事をするため」「客観性を持たせるため」等という口実も十分に用意されている。しかし、気づいてみると、いつの間にか自分だけでは仕事ができなくなっていることに驚かされる。以前は自分一人でバリバリと仕事をしていたはずであるが、そういう機会も少なくなっているし、直接実務に係わっていないと現場の情報も入らないし、現在の状況がどうなっているのかも細部は判らない。当然、今何をなすべきかの発意もない。具体的な仕事を持ち上げてくるのは現実的に実務に携わっている現場の人間である。その持ち上がった仕事をああでもないこうでもないと検討し、最終的にはまた現場にもどされる。現場なしでは何も成り立たない。

一体、自分の存在は何なのだろう。

 上と下をつなぎ合わせる役目であり、周囲と内部を整合させる役目であり、無駄をなくして効率的に仕事をする指標を見出す役目である。そんな中で心の支えになるのは、信頼関係だけである。とにかく信頼されないと仕事はうまく行かない。上司や周囲に不信感をもたれたらつなぎ合わせることも整合を取ることもできない。部下から不信感をもたれたら指導に従ってくれない。指導に従わない部下の上司はますます不信感をもたれる。自分を中心に見るとこんな感じになるが、他人の立場に立つと、まずは上司を信じ、周囲を信じ、部下を信じることから始めなければならない。信じるが故の意見提示であり提案であり指導でなければならない。人は変えることはできないが自分は変えることができる。人に信じてもらえないなら、こちらが徹底的に信じることである。信じてもらえないからと自分の行動を束縛し躊躇していたのでは悪循環を招くだけである(過去にその経験をしたことがある)。

信じてくれないと嘆くより、自分から人を信じよう。

 生まれたての赤ちゃんが生き生きとして生命力に溢れているのは、人を信じて疑わないからだろう。他人に全身を委ねられる勇気を持っているからだろう。こんな赤ちゃんを疑うような人間は誰もいない。たとえ自分を犠牲にしてでも、この赤ちゃんのために何かをしてやろうと思うはずである。それは、この赤ちゃんを信じているからである。自分を心底から信じてくれる人は信じるに値する人でもある。人に信じてもらおうと努力することは難しいが、自分がその人を信じることは可能である。信じるに値しない人でも、信頼を裏切るような人でもまずは信じることから始めなければならない。不信感から出発したものはいつまで経っても不毛である。また、ひとつの不信感を、その人の全てを否定するような不信感へ発展させてはならない。そのひとつの不信感を解消することを目指して努力しなければならない。自分の思い込みを変えて行くのである。人を変えることは難しいが自分を変えることは簡単にできる。人が変わらなければ自分を変えればいいのである。そして自分の目的を達成すればいいのである。何も依怙地になることはない。

たまには、自分で直接仕事をしたいものである。

 自宅での庭仕事や日曜大工の作業は自分で直接せざるを得ない。やってみると、その要領の悪さに驚いてしまうし、何度も失敗を繰り返す。いくら指導的立場にあるとは言っても所詮この程度である。仕事上の役割分担だけの話で、実務能力は自分も他人もどっこいどっこいである。違うのは責任・権限と情報量と総合判断力であろうか。しかし、責任・権限と情報量と総合判断力だけでは仕事はできない。たまには、現場の厳しさを日曜大工や趣味やスポーツの中で経験することも重要である。話では判っていても具体的に実現化するのがいかに大変か身をもって体験するのである。これさえも億劫なようであれば、そろそろ引退を考えた方がいい。現場の厳しさを理解できない人に指導的な立場で仕事を続けることはできない。そして、できたら仕事面でも自分で直接できる仕事を見つけたらどうだろう。たとえできなくても現場の厳しさを体感できる努力を怠らないことが極めて重要である。

しかし、何でもかんでも直接自分でやろうとするのは考え物である。

 指導的な立場にあるべき人がこれをやると周囲が迷惑をする。必要のないところまで頭を突っ込まれて掻き回されたのでは現場の主導性が萎えてしまう。大局的に見れば現場を信頼していないことになる。また、指導的な立場にある人の発言は強制力と重みを持ち、軽易に取り扱えないし変更することが不可能になり柔軟性を欠くことになる。その指導的な立場の本人の上司も安易に指導しづらくなる。部下の案であれば意見も言えるが、部下の前で本人の案を否定するわけにはいかない。当然本人も依怙地になって正当性を主張せざるを得なくなる。ぎくしゃくするのが目に見えてくる。

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