散歩の時に農家の畑や田圃やビニールハウスがいやにでも目にはいる。
農作業をやっているところも四季を通じて見物できる。そこで気づくのは「みんな同じ」ことである。農機具も使う道具も植え方も育て方も手入れの仕方も農薬散布も作業の時期も見ようによっては農家の方の服装までも同じに見える。これはいったいなんだろうと不思議に思えてきた。理想的な農業を極めると同じところにたどり着くのだろうかとも思ったが、そうでもなさそうだ。農家ごとにそれぞれのやり方があっていいはずだし、それぞれが試行錯誤を繰り返し理想の農業を追求するつもりなら、そのやり方はそれぞれに微妙に違ってくるはずである。
各家庭でそれぞれに理想の生活を追求していると思うが、
あちこちにおじゃましても、各家庭ごとにそれぞれ違った個性が感じられる。決して「みんな同じ」ではない。どうして農業はこれほどまでに「みんな同じ」なのだろう。その謎を解く鍵は「農協」ではないかと思う。「農協」は世界語で「NOKYO」として海外でも通用する日本独特のものである。あまりにも「NOKYO」が異様な団体という印象が強いため、この頃では「JA:Japan Agricultural Cooperatives」と称してイメージチェンジをはかっている。
農協すなわち農業協同組合は、
農業協同組合法(1947年)に基づき、農民が自らの経済的・社会的地位の向上を図るために設立された自主的組織であるが、本来は1900年産業組合法によって発足した産業組合が第2次大戦中に国家統制色の強い農業会として発展し、これを母体として戦後各地に組織されたものである。その事業内容は、農産物の集荷や販売、農業資材などの購買、施設や機械の共同利用、技術・営農指導、生活改善、信用(資金貸付け、貯金受入れ)、共済など広範多岐にわたる。
農業組合の組織は、
前述の事業を総合的に行う総合農協と、畜産、養蚕、養鶏、園芸、果樹、酪農、開拓など特定の分野別に特定の事業のみを行う専門農協の2種類がある。いずれも、事業ごとに単位農協、都道府県レベルの連合会、全国レベルの連合会と3段階に組織化されている。総合農協の全国組織が1972年発足の全国農業協同組合連合会(全農)。信連、経済連、共済連はそれぞれ事業別の全国組織。また、米価運動で知られる全国農業組合中央会(全中)は、農協の指導・監査・教育事業分野の全国組織。
上記は「農業協同組合」のお勉強で百科事典の請け売りであるが、
要は、広範多岐にわたる分野を隅から隅まできめ細かく、しかも全国津々浦々まで農業に関することを牛耳っているのである。農業が画一的なのは何となく解るような気がする。しかし、この日本の農業をだめにしたのも「農協」である。いいことも悪いことも含めて「農協」が画策し推進してきた事業である。決していいことばかりとは思えないし、この頃は害悪を及ぼすほうが強くなっているのではないかと思えるふしが随所にある。現在の日本の農林・漁業就業者比率は1996年で5.5%であり、どう考えても成長産業とは思えない。
農薬漬け、化学肥料漬けの農業を推奨したのは「農協」である。
別に、「農協」が農家に強制したわけでもないし、悪気があって農薬や化学肥料を薦めたわけではないだろうが、結果として農薬漬け、化学肥料漬けの農業が現出し、この農薬や化学肥料が公害をもたらしている。どこかのお偉い学者さんが、農協を通じて技術指導と称して農薬や化学肥料の必要性を説き、その効能と使用法をきめ細かく指導して普及すれば、農家は従わざるを得ない。農家にはお偉い学者さんに勝る技術も知識もない。「海外の農産物は無許可の農薬を使用して人体に害を及ぼす危険性がある」と言って海外の農産物の輸入を拒否しているが、世界で最も農薬を使っているのは日本の農業である。海外では日本のように農薬を使う必要もないし、広大な農地にそんなに大量に使ったのでは採算がとれるはずがない。
ハウス栽培が盛んなのも「農協」の技術指導のおかげである。
市場原理を考えると、出荷時期を早めると珍しさもあって商品価値は高くなる。しかし、みんなハウス栽培を始めると、もっと出荷時期を早めなければならない。そこで加温設備を持つ温室栽培が誕生する。かくして野菜は旬がなくなり一年中出回っているが、商品価値が高まっているわけではなく値段があがっているだけである。当然露地物の輸入品には太刀打ちできない。世界各国から輸入するつもりなら一年中旬のものを供給することができる。何のためのハウス栽培であり温室栽培なのであろう。
野菜や果物は旬のものがもっとも栄養価が高い。
どういう訳か、青いものが新鮮だという勘違いをさせられているが、赤や黄色に色づいて熟したものは青いものより数倍も栄養価が高い。市場に熟したものが出回らないのは、熟したものが傷みやすく流通段階でのロスが大きいからである。青いものしか市場に出ないのは売る側の都合であり買う側の要求は無視されている。この流通を牛耳っているのも「農協」である。農産物に細かい規定を設けて、これにはずれるものは買い取らない。農家としては流通は「農協」にまかせっきりなため買い取ってもらわないと困るので従わざるを得ない。かくして、キュウリは長さ何センチで、太さ何センチ、重さ何グラムで曲がってなくて、緑色で・・・云々という基準に合致したものが店頭に並ぶ。
稲作は水田が常識となっているが、
乾田でも稲作は可能である。外国は乾田のほうが多いと聞いている。日本みたいにきめ細かい複雑な手間のかかる農業では採算がとれない。この手間のかかる水田を普及させたのも「農協」である。しかも、定規で測ったように整然と田植えをし、定期的に手入れを強いられる。このやり方を効率的にやるためには、高価な田植機を買い、苗も農協が供給するものを使わざるを得ないし、稲刈り機も必要になる。実は、水田でも直播きが可能である。水田に直接籾を播いて育てるのである。整然とした田圃でなくても、きめ細かな手入れをしなくても収穫量はさほど変わらないと言う。
このように効率の悪い農業でも日本国内では成り立っている。
しかし、これは農業に対する補助金や、農業支援策や、農産物の輸入関税障壁などに保護されているたまものである。自由化され市場原理の戦いの中にさらされれば、このような効率の悪い農業は成り立たない。もっと効率のよい農業が求められ、当然農産物の価格も安くせざるを得ないと思う。農業に直接従事している人よりも、農業に直接従事していない農業関係者のほうが多いといういびつな状況も改善されると思う。形だけの零細農業は淘汰され集約されて、本当の大規模な近代農業が可能になると思う。工場におけるスケールメリットの追求はほぼ完了したが、農業はほとんど昔のままの旧態依然とした姿で保存されている。このまま天然記念物にしていては絶滅してしまう。
幸い、あちこちで新しい農業の試みがなされている。
本来の土地を利用した農業と、土地を利用しない工場に近い農業である。土地を利用した農業も、本来の自然の力を利用した自然に優しい農業であり、スケールメリットを利用した機械化された近代農業である。日本は森に恵まれ、諸外国に比べれば良質の土壌を保有している。諸外国では半分砂漠みたいなところで農業を営んでいるのも珍しくない。日本においても本来の土地の力を利用した農業で十分競争できると思う。ただし、これを可能にするためには広大な農地を必要とするが、現在の農地法はこれを許さない。農地の所有者は農業ができなくても農地を手放せない。また、せっかくの先祖代々の農地が国の都合で宅地や工業地に転用されている。これはなんとか改善してゆかなければならないと思う。
もうひとつの土地を利用しない工場に近い農業であるが、
これは水耕栽培を中心とするもので将来的には有望であり、土地の少ない日本に最も適した方法であると思う。自然志向の人はこのようなやり方を嫌うかもしれないが、限りなく自然に近づければ自然と同じであり、太陽も水も空気も肥料も自然のものであれば何も問題ない。自然に任せれば二期作もしくは三期作が限度であるが、この方法は年中しかも短期間で収穫できるし害虫や病原菌の心配もない。旧態依然たる頑固頭の人たちは「従来の農業をつぶす耕法である」というが、従来の農業をつぶしたのは旧態依然たる頑固頭の人たちでありその姿が現在の農業である。ここにきて何を血迷ったことを言うのか理解に苦しむ。こんな意見に惑わされず将来を見据えて是非推奨し、支援策を講じてもらいたいと思う。
我が街にもいつの日か、
いろいろな農業のやり方が誕生し、お客さんの要望を満足し、お客さんの喜ぶ姿を見ながら農業ができる世の中がいつか実現できることを夢見ている。(私は農家の人との個人的な関係においてすでに一部は実現しているのだが・・・)
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