エゴイズムとは、日本語で「自我主義」と言うらしい。
しかし、「自我主義」という言葉はあまり普及していない。ほとんどが「エゴイズム」という言葉で表現されている。多分これもまた、日本文化として取り入れられることなく、外国からの横文字をそのまま受け入れている代表格なのだろう。本来であれば、「エゴイズム」を日本語の「自我主義」として日本国の文化として本来の考え方や思想を取り込んでゆくべきなんだろうと思う。日本にはこのような外国からの受け売りみたいな概念が多数あるが、こんな言葉には大いに注意を要すると思っている。そして、使い方も表面的で誤解されて安易に使っている場合が多いと思う。
さて、エゴイズムとは、
「自我のみを認識可能なものとする」考え方である。確かに最終的にはあらゆるものを認識する根底は自分であり、自分の中に形成された自我であることは間違いない。それなのに、エゴイズムと言うと、利己主義とか自己中心主義とかと同等に置き換えられる。自己の利害だけを行為の基準とすることとか、自分を第一に考えることと同じように表現される。これは「エゴイズム」の初期段階の幼稚な考えであり、エゴイズムそのものではない。「自我」が利他的であったり自己の観点を超えて相対的かつ客観的な考え方をするのは何もおかしくないし、発達し成長した「自我」は当然そのような考えをするようになる。
それでも、認識可能なものは「自我」なのである。
そう考えるのが、「エゴイズム」である。認識や意識の発露は自分にしかない。その認識や意識を大切にするのが「エゴイズム」でもある。認識や意識そのものを利己主義で自己中心的なものにすることが「エゴイズム」ではない。それでは、なぜ、利己主義で自己中心的な考えになるかと言うと、自己が未発達で幼稚なことと、自己がある限定された中で形成されていることである。それは自分だけかもしれないし、家族だけかもしれないし、所属する集団だけかもしれないし、国かも知れないし、民族や人種だけかもしれない。そのことに囚われ過ぎて自我を形成すると正常な自我は育たない。
利己主義や自己中心主義は、
未発達で幼稚で限定された範囲での考え方なのである。そして、最終的には所属する集団の考え方に洗脳された自我でもある。本来の発露としての自我はそう考えていないはずである。なぜならば、本来の発露としての自我を外部に向かって主張し、展開していこうとすれば、周囲の多種多様な自我も考慮に入れなければならない。その範囲が広ければ広いほど自分自身の自我は完全なものとして成長し発達する。最終的には地球規模、もしかしたら宇宙規模かも知れない。そんなたくさんの発展途上の自我が世界中に溢れている。
それでも、その発展途上の(他人の)自我を評価し判断するのは自分自身の自我である。
発展途上にある自分自身の自我を世界に向かって発信するのである。受け入れられないかもしれないし、受け入れられるかもしれない。ただ、結果はどうなろうとも「自我」は決して捨ててはいけないのである。「自我のみが認識可能なもの」なのであり、この「自我」を捨てたら認識そのものができなくなる。何も認識しない生ける屍となってしまう。自分そのものの存在がなくなってしまう。世界中から反対されようと賛成されようと無視されようと「自我」は死ぬまでなくならないし、最強の「自我」であれば死後も子孫への遺産として残るかも知れない。
「エゴイズム」を拡大解釈すれば、
一つの集団にも「自我」が存在する。しかし、その「自我」の発露は不明確である。集団の最大多数の考え方が「自我」かもしれないが、「自我」とはそんな単純なものではない。よって集団の「自我」は誰かによって意識的に作り上げられる。その作り上げられた「自我」を評価し判断するのは、やはり個人個人の「自我」なのである。この時に集団の「自我」を強制されたり誘導されたり取り込まれたりしてはいけないのである。何度も言うが「自分自身の自我のみが認識可能なもの」なのであって、決して集団の自我によって認識されるわけではない。そのような集団の考え方に囚われない自分自身の「自我」を大切にすることこそが「エゴイズム」の神髄なのではないだろうか。
世間でエゴイズム(利己主義、自己中心主義)と批判する時は、
集団の「自我」に毒された人達が、自己のエゴを主張する個人を攻撃する時に使われる。果たして集団の自我が正しいのか個人の自我が正しいのかはわからないが、集団に毒されていない自我の方が正当な意見に見えてくる。視点は集団の利益を優先するのか個人の利益を優先するのかだと思うが、集団も個人も超越したもっと大きな自我を追求すべきではないだろうか。国会討論でよく個人攻撃をしている人を見るが、果たして個人の利益のためなのか、集団の利益のためなのか、政党の利益のためなのか考えてみると、大本の根本の自分の本来の自我はどこにあるんだろうと思ってしまう。その自我が幼稚であれば問題外だが、少なくとも一端の政治家なのだから優秀な自我をお持ちなのだと思う。その自我で、その個人攻撃の内容が世界中に発信してもおかしくないか、笑い者にならないか、何のためにやっているのかともう一度考え直してほしい。国レベルでもおかしいだろう。是非自我に目覚めていただきたい。もっと他に論議すべき重要なことがあるだろう。別に間違っているとは言わないが是非考え直していただきたい。日本の政治にはもっと重要な課題が山積みなはずである。そんな重箱の隅をつくじる話は別の場所で論じてもらいたい。
しかし、「自我主義」という言葉はあまり普及していない。ほとんどが「エゴイズム」という言葉で表現されている。多分これもまた、日本文化として取り入れられることなく、外国からの横文字をそのまま受け入れている代表格なのだろう。本来であれば、「エゴイズム」を日本語の「自我主義」として日本国の文化として本来の考え方や思想を取り込んでゆくべきなんだろうと思う。日本にはこのような外国からの受け売りみたいな概念が多数あるが、こんな言葉には大いに注意を要すると思っている。そして、使い方も表面的で誤解されて安易に使っている場合が多いと思う。
さて、エゴイズムとは、
「自我のみを認識可能なものとする」考え方である。確かに最終的にはあらゆるものを認識する根底は自分であり、自分の中に形成された自我であることは間違いない。それなのに、エゴイズムと言うと、利己主義とか自己中心主義とかと同等に置き換えられる。自己の利害だけを行為の基準とすることとか、自分を第一に考えることと同じように表現される。これは「エゴイズム」の初期段階の幼稚な考えであり、エゴイズムそのものではない。「自我」が利他的であったり自己の観点を超えて相対的かつ客観的な考え方をするのは何もおかしくないし、発達し成長した「自我」は当然そのような考えをするようになる。
それでも、認識可能なものは「自我」なのである。
そう考えるのが、「エゴイズム」である。認識や意識の発露は自分にしかない。その認識や意識を大切にするのが「エゴイズム」でもある。認識や意識そのものを利己主義で自己中心的なものにすることが「エゴイズム」ではない。それでは、なぜ、利己主義で自己中心的な考えになるかと言うと、自己が未発達で幼稚なことと、自己がある限定された中で形成されていることである。それは自分だけかもしれないし、家族だけかもしれないし、所属する集団だけかもしれないし、国かも知れないし、民族や人種だけかもしれない。そのことに囚われ過ぎて自我を形成すると正常な自我は育たない。
利己主義や自己中心主義は、
未発達で幼稚で限定された範囲での考え方なのである。そして、最終的には所属する集団の考え方に洗脳された自我でもある。本来の発露としての自我はそう考えていないはずである。なぜならば、本来の発露としての自我を外部に向かって主張し、展開していこうとすれば、周囲の多種多様な自我も考慮に入れなければならない。その範囲が広ければ広いほど自分自身の自我は完全なものとして成長し発達する。最終的には地球規模、もしかしたら宇宙規模かも知れない。そんなたくさんの発展途上の自我が世界中に溢れている。
それでも、その発展途上の(他人の)自我を評価し判断するのは自分自身の自我である。
発展途上にある自分自身の自我を世界に向かって発信するのである。受け入れられないかもしれないし、受け入れられるかもしれない。ただ、結果はどうなろうとも「自我」は決して捨ててはいけないのである。「自我のみが認識可能なもの」なのであり、この「自我」を捨てたら認識そのものができなくなる。何も認識しない生ける屍となってしまう。自分そのものの存在がなくなってしまう。世界中から反対されようと賛成されようと無視されようと「自我」は死ぬまでなくならないし、最強の「自我」であれば死後も子孫への遺産として残るかも知れない。
「エゴイズム」を拡大解釈すれば、
一つの集団にも「自我」が存在する。しかし、その「自我」の発露は不明確である。集団の最大多数の考え方が「自我」かもしれないが、「自我」とはそんな単純なものではない。よって集団の「自我」は誰かによって意識的に作り上げられる。その作り上げられた「自我」を評価し判断するのは、やはり個人個人の「自我」なのである。この時に集団の「自我」を強制されたり誘導されたり取り込まれたりしてはいけないのである。何度も言うが「自分自身の自我のみが認識可能なもの」なのであって、決して集団の自我によって認識されるわけではない。そのような集団の考え方に囚われない自分自身の「自我」を大切にすることこそが「エゴイズム」の神髄なのではないだろうか。
世間でエゴイズム(利己主義、自己中心主義)と批判する時は、
集団の「自我」に毒された人達が、自己のエゴを主張する個人を攻撃する時に使われる。果たして集団の自我が正しいのか個人の自我が正しいのかはわからないが、集団に毒されていない自我の方が正当な意見に見えてくる。視点は集団の利益を優先するのか個人の利益を優先するのかだと思うが、集団も個人も超越したもっと大きな自我を追求すべきではないだろうか。国会討論でよく個人攻撃をしている人を見るが、果たして個人の利益のためなのか、集団の利益のためなのか、政党の利益のためなのか考えてみると、大本の根本の自分の本来の自我はどこにあるんだろうと思ってしまう。その自我が幼稚であれば問題外だが、少なくとも一端の政治家なのだから優秀な自我をお持ちなのだと思う。その自我で、その個人攻撃の内容が世界中に発信してもおかしくないか、笑い者にならないか、何のためにやっているのかともう一度考え直してほしい。国レベルでもおかしいだろう。是非自我に目覚めていただきたい。もっと他に論議すべき重要なことがあるだろう。別に間違っているとは言わないが是非考え直していただきたい。日本の政治にはもっと重要な課題が山積みなはずである。そんな重箱の隅をつくじる話は別の場所で論じてもらいたい。
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