オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

所得税と相続税について

2008年11月16日 | Weblog


所得税や相続税の見直しが毎年のようになされている。

 その中で、「所得再配分」という言葉が出てくることに違和感を持っている。所得の多い人からはたくさん税金を取り、所得の少ない人からは税金を軽減して、国民個々の所得の凸凹をなくし不公平にならないようにしようという考えである。私はこの考えに「みんな同じことが平等」という雰囲気を感じ取る。基本的には所得が多い少ないは個人の自由であり、多いとか少ないとかいちいち国から統制され調整してもらう筋合いはない。

それでは、税金はどうあるべきかと言うと、

 税金の考え方そのものがおかしいと思う。税金を単なる義務として最初から強制することに問題がある。私に言わせると、税金は基本的には自己申告が原則であり、「自分の収入がこれだけで、よってこれだけの税金を払うことができます(国家に貢献できます)」というのが本来の姿であると思う。状況によっては、財力のある人はもっと国に貢献してもいいのである(通常諸外国では寄付という形で税金とは別に納めている)。

それを、一方的に強制するからおかしなことになる。

 当然税金は単年度収支である。単年度の所得が突出することはあり得る。そのために法外な税金を取られたのでは事業に支障が出る。不自然な所得の平準化を作為しなければならない。相続税も同じで、一等地で土地を相続すると相続税のために土地そのものを切り売りするため、相続の度に土地が減少して行くことになる。都心部は猫の額の土地でしか住宅を建てられないらしい。少なくとも現に住んで居る家を追われるような税制はおかしいと思う。事業を相続した場合も同じである。相続したばかりに事業が継続できないのはおかしいと思う。先祖代々の積み重ねが御破算になってしまう。これが望ましい姿ではない。

現在の所得税や相続税の累進課税制度は戦前の名残である。

 源泉徴収制度は戦費調達の手段として始まったものであり、累進課税制度は戦後の財閥解体の余波を受けている。そのために税金を強制的に搾取されている感覚はあるが、自らの意志で喜んで税金を献上している感覚はない。税金を払うことにより国のために貢献しているという誇りも自負も名誉も感じられない。制度として税金があるから仕方なしに取られているという感覚である。最近「定額減税で高所得者の給付辞退は自主的な判断でやったら良い」と麻生総理が述べたら、中央も地方も国民も大反対である。年金の辞退も制度としてはあるがほんの一部(150名?)でしかない。

そんな中で、「所得再配分」という言葉を聞くと空々しい感じがする。

 何の権利があって一方的に国が所得再配分をすることができるのであろうか。そしてどこまで所得再配分が可能で、どこまで所得再配分をしようとしているのか。よくわからない。国民個々が自己申告によりどこまで納税が可能かという判断の積み重ねの結果として富める者と貧しい者の格差が縮まるのは納得できるが、単なる数字で強制的に縛るのは基本的にはおかしい。そして、数字で示された税金さえ払っていればそれで責任は全て果たしたと思ってしまうのも考え物である。富める者も貧しい者も一律の税金以外に社会に貢献するためにできる限りの負担をする考え方があってもいいはずである。

私は慈善事業の寄付は公的機関主催のもの以外は一切出さない。

 得体の知れない慈善団体が多いからである。集めた寄付が有効に使われたかどうかの確認もできない。公的機関であっても会計報告を出して告知している団体は私の知る限りでは少ない。国民の善意の寄付を集めたら、その集計結果と収支決算を明らかにするのは当然のことだと思うが、どうもいい加減な気がする。少なくとも公的機関であれば不正を働くことはないであろうという判断からここを通じて寄付をしているが、街頭や戸別訪問での寄付は遠慮している。中には慈善団体を装って詐欺を働くグループもいる。よーく気をつける必要がある。

過去に戸別訪問で寄付を募る自称ボランティアの若者と何度かやりとりしたが、

 どこの団体に所属し、どういう組織かと言う問いに対しあやふやな返事しか返ってこない。「誰々さんも趣旨に賛同して寄付していただいている」「可哀想な人々を救うために是非協力していただきたい」というだけである。趣旨には賛同するが、当該慈善団体が正式なものかは別問題である。それを証明するものがない限り寄付はできない。その旨を話すと最終的にはその自称ボランティアの若者は捨てぜりふを残して逃げるように去っていった。断定はできないがいかがわしい慈善団体であることは否定できない。

日本は慈善事業の受け皿をもっと整備すべきであると思う。

 単なるボランティアの寄せ集めではなく、制度として定着しなければならない。そして、慈善事業に対する制度上の優遇処置を考えてやるべきである。富める者も貧しい者も自分の生活の一部を慈善事業に振り向けるという心構えを大切にすべきだと思う。そうすれば、「所得再配分」などという味気ない数字だけの政策でなく、結果として国民の総意のもとに「相互扶助」の考えが浸透し、自然に所得再配分が行われることになる。これは当然強制ではないし、本来の自由平等主義に反するものでもない。

富める者は富めるなりに貧しいものは貧しいなりに

 国家のために貢献し相互扶助の一翼を担うことになる。何度も言うが「みんな同じ」が自由平等ではない。「みんな同じ」を強制すると弱い者や貧しい者の肩身が狭くなるばかりであり、反対に被害者意識と依存体質が強くなるだけである。弱くても貧しくても何もひがむことはない。正々堂々と生きていけばいいし、何人であろうと援助が必要ならば自ら要請すればいい。自立できる人には援助は必要ないのである。


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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2008-11-16 20:22:07

『椿事件』

1993年9月21日、民間放送連盟の「放送番組調査会」の会合の中で、
テレビ朝日報道局長の椿貞良が、選挙時の局の報道姿勢に関して

「小沢一郎氏のけじめをことさらに追及する必要はない。
今は自民党政権の存続を絶対に阻止して、
なんでもよいから反自民の連立政権を成立させる
手助けになるような報道をしようではないか」

との方針で局内をまとめた、という趣旨の発言を行う。

(ウィキペディア「椿事件」)
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