阪神淡路大震災から25年がたつという。
6434人が犠牲になり、住宅25万棟が全半壊し、31万人以上の避難者があった。甚大な災害であるが、果たしてこの教訓が今現在に生かされているのかをもう一度検証する必要がある。家屋や建築物やインフラは回復し、当時の被害は全く消滅しているだろうが、被災された人達の心の傷は果たして回復しているのであろうか。心の傷は風化を待つしかないようである。よく災害の風化を危惧する人が多いが、風化も大切ではないかと思う。風化すべきものと風化してはならないものがあるのだろう。
災害や犯罪や事故があると「心のケア」が叫ばれる。
「心のケア」と最初に聞いた時になんか違和感があった。日本語の「心」と外国語の「ケア」が結びついているからかもしれない。「心」が漠然としたものであり、「ケア」が具体的な対処であるからかもしれない。案の定「心のケア」は何かがあると呪文のように唱えられるが、中身は空虚である。何故かというと、「心」の部分はたくさん語られるが、「ケア」の部分が具体的に見えてこないのである。何が「ケア」なのかがはっきりしないのである。
「心のケア」は意外と冷静で事務的で当然のことしか実行しない。
お祭り騒ぎでもないし、何かのイベントでもないし、周囲に向かって大々的に呼び掛けることでもない。反対に心のケアを受ける側にとっては迷惑な部分もあるし、そのまま放っておいてほしい部分もある。ケアをする側も対策をする必要のない部分まで踏み込むことはない。ある被害者にとっては「心のケア」は何もしてくれないということもある。反対に必要ないのかもしれない。必要であれば具体的な行動が必要なのだろう。
「心のケア」という言葉を唱えていれば何となく済んでしまうが、
具体的な「ケア」が何なのかをある程度現実のものとして明確にする必要がある。唱えるだけで済ませてはいけないのである。果たして誰がどんな具体的なケアをどんな人にやっているのか漠然としたままである。みんなを一緒くたにした単なるイベントとして終わっている。本当の「心のケア」の対象は個人である。一人一人の心に向かい合って必要なケアが為されるのが基本ではないだろうか?
「心」に悩みを持っている人はたくさんいる。
何も災害や犯罪や事故だけではない。病気になった人が病院に行くのと同じようなもので、病気でもないのに病院に行っても仕方ない。「身体」に悩みを持った人が病気でもないのに全てみんな病院に殺到しても困ってしまうし、病気でもないのに病院に連れていかれても困る。そして、「ケア」ができるのはある程度専門的な知識と能力を持った人達である。一般の人では「ケア」はできないのである。一般の人ができるのは支援と励ましと思いやりであって、「心のケア」ではない。
「心のケア」で具体的な問題は解決しない。
症状が緩和されるだけである。「心のケア」を必要としない人の話は聞いてもくれないかもしれないし、話を聞いてもらっても具体的な解決策は示されない。しなくても済む介入はしないし、相手を教え導くものでもない。親身になって接して、最大限の思いやりを尽くすことだと思う。これは個人を前にしてしかできないことであり、時間をかけないとできないことでもある。当然一般人ができることではない。そこの部分に誤解がある気がする。
「心のケア」の有効な手段は風化である。
時間の経過とともに心の傷は癒される。「心のケア」が必要なのは発生当初の強烈なショック体験、強い精神的ストレスに対して行われる心的外傷への対症療法であり、この心のケアが心的後遺症も緩和できることになる。風化した後であっても心的障害の経験に対して恐怖を感じる後遺症が残るが、これに対しても「心のケア」が必要なのである。こんなことを感じながら「心のケア」について改めて考えてみた。「心」と「ケア」が調和していないし、一般の人と専門家との認識に乖離があるようである。
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