オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

新型コロナの反省

2020年07月16日 | Weblog
新型コロナは果たして世の中にどんな影響を与えているのだろう。

 新型コロナが蔓延して、人間のインフラを脅かしている現状においていろいろと考えてみると、我々人間の生活がいかに文明に毒されているかが解かる。自分の毎日を振り返ってみるだけでも、朝起きた時の洗面、歯磨き、髭剃り、整髪に始まって、水洗トイレ、朝食、テレビ、ラジオ、自動車、買い物、昼食、夕食、パソコン、スマホ、エアコン、扇風機、着ている服、洗濯機、風呂、玄関のインターホン、ネット通販、宅配、などなどみんな人間の生み出した文明であり、インフラである。

これで、新型コロナで制限されているのは何だろう。

 外出の制限と、遠出の制限である。今のところ私の周辺では流通の不便はない。生産や流通に携わる人達に感謝感謝である。じゃあ外出と遠出の制限を受けても不便かと言うとそうでもない。自宅周辺でも十分に生活は成り立っているし、それなりにエンジョイしている。反対に無駄なものがそぎ落とされて必要なものだけが残った感じである。本当に必要な物しか受け入れない感覚が育ちつつある。

本当に必要な物とは、自分では実現困難なものである。

 そして、自分の生活に必要不可欠なものである。それ以外は自分でやればいいのである。稚拙はあってもそれなりに自分でもできるものであり、自分でやることに本来の意義がある。そんな本質的な考え方を見直しつつある。巷で宣っている「不要不急なもの」は意外に多いものである。不要不急はとりあえずは必要ないのである。そんな不要不急のものを取り消されて困っている業種の人もあるが、それはそれで考え直して反省すべきなのではないだろうか。

基本とすべきは本当に必要不可欠なものであり、堅実なお客なのである。

 それ以外は、あくまでプラスアルファの未知数の予測不能な要素なのである。このプラスアルファだけを狙って金儲けをしようとするところに問題がある。堅実なものを対象にしていればいざという時も問題ない。需要の減少に合わせて規模を縮小すればいいだけのことであり、不測事態が短期間であればそのまま何とか持ちこたえることができるであろう。これができないところに問題がありそうであり、この問題を解決するのが最優先ではないだろうか?

国が損失を被った事業者をいくら救済してもコロナ対策にはならない。

 あくまでも経済対策である。本来であれば、このコロナ危機を乗り越えられない事業者は淘汰してもいいかもしれない。救済すべきは継続の価値のある事業者であり、本当に救済を必要としている事業者である。何もかも救済するのは無駄以外の何物でもない。GO TOキャンペーンなどやっているようだが、これも観光関連業界を一律に救済しているだけであり、コロナ対策とは何も直接は関係ない。そこのところをよく考える必要がある。

全体のパイが少なくなったら、それなりの配分がなされるだけである。

 それなのに国が全体のパイを大きくしても何も意味がない。みんなが少しずつ潤うだけで何も対策にはなっていない。対策は個別にやるべきであり、個別の具体的な対策をどうするかを考えて計画するのが国の役割である。そしてその個別の対策を実行するのが各地方自治体でもある。官僚や役人さんがしっかり仕事をしないとただ金が右から左へ流れるだけでは何も効果がないのである。少しは考えてほしい。

事業は小さければ小さいなりに成り立つものである。

 小さくなったら成り立たなくなったというのは何かおかしい。そのような縮小する要素も含めて事業の存続を考えるべきである。たぶんこのコロナ禍で縮退する分野もあり成長する分野もあるだろう。これに柔軟に対応することが求められるのだろう。縮退すべきは縮退し、成長すべきは成長すべきなのだろう。これができる事業者が生き残るのだろう。そのような淘汰の場面であることを再認識すべきであり、国からの補助を期待していては何の進展も望めない。 

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