オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

新型コロナ後の新しい生活様式

2020年06月13日 | Weblog
新型コロナが終息に向かっている。

 世界中でパニックになっているが、これはこれなりにたくさんの教訓事項を残している気がするし、人類はこの機会に大いに反省すべきだと思っている。もともとウィルスは自然のものであり、人間が作り出したものではない。自然の中に存在する自然にとっては必要不可欠なものである。われわれ人間でさえこのウイルスのような物質を利用して生命活動を維持している。

新型コロナウィルスは人間に害を及ぼす。

 最終的には細胞を破壊し炎症を起こす。また、身体の防御反応で過剰な攻撃モードになると自分の細胞さえ自ら破壊してしまう。その最終的な場所が肺であり、重症化すると肺炎で死亡してしまう。しかし、感染する人は2割で、そのうちの8割が軽症か無症状であとの2割が重症化し、死に至るのは全体の1%程度にしかならないと言われている。

あまり過剰に反応しないことである。

 感染してもほとんどは回復し、重症化しても死に至るのはほんの一部なのである。回復した人は抗体を得て免疫力を獲得することができる。それなのに感染したら即死んでしまうような悪魔のような怖い存在だと誤解している人がほとんどであり、そのためにあちこちで様々な騒動が起こっている。ウィルスそのものを退治するのではなく、人間同士が恨み合い喧嘩しののしりあっている。

人間とはどうしようもない生物である。

 コロナウィルスの災禍を招いたのは人間である。人間が乱開発して新種のウィルスを掘り起こしてそれを人間が拡散しているのである。ウイルスが増殖するためには宿主が必要であり、考えてみれば宿主を全滅させるようなことはウイルスにとっては自殺行為である。人間以外の生物であればこのまま自然のままに放置すれば最終的には終息し新たな調和が生まれるのだろうが、人間はこれを制御しようとしている。果たして可能なのだろうか。

そして、ウィルスを制御しようとすると人間の自由が奪われる。

 ウィルスを媒介しているのは人間だからである。そのまま放置していれば犠牲者はいてもいずれは抗体を得た人間が多数となり終息するのであろうが、人間としては人の生命を見捨てることはできない。そして、人間の社会生活を支えている文明のインフラそのものが機能しなくなる。これでは困ってしまう。せめて、急激で爆発的な感染は防がなければならない。

新型ウィルスの世界的蔓延は多くの教訓を残した。

 まずは金儲け主義の反省である。金さえ儲かれば何でもするという考え方は考え直すべきである。根本に帰って自分の今成していることは自然界の中で人間社会の中でどんな意味があり価値があるのかを見つめなおす必要がある。金勘定だけではないのであり、ウィルスを前にして金は何の意味も持たない。ウィルスは金で動いているわけではない。そしてウィルスはすべての人に平等に恐怖をもたらす。

考えてみると、金はなくとも人生は楽しめるのである。

 かえって金を使わないで自分で工夫して作り上げる人生の方が価値があるし、自然にも優しい。何でも自分でやってみるのである。傍観者で他人の成果を自分の成果のごとく扱って対価として金を払っているのはバカみたいでもある。自分の楽しみを売り渡しているに等しい。そんな世の中がまかり通っている。コロナ禍の中での生活は、改めてこのことを思い起こさせてくれる。

コロナ禍の下で生活してみると、

 本当に必要なものと必要でないものが見えてくる。人に対するもの、物に対するもの、自然に対するものなどがあるだろうが、最も顕著なものが「人に対するもの」である。はっきり言うとサービス業であるが、サービス業の中身は自分でもやれることを他人に任せていることでもあるし、なければなくてもいい。物は製作・製造業によるものであり、自然は農林水産業によるものであるが、これらは自分でやれる範囲は限られているし、生活する上で必要性が高いものが多い。サービス業は根本的にこのような性格の業種だということを再認識すべきであり不必要なものが多い。

経済の観点からの効率化・合理化が脆弱性の根源である。

 経費を節減する目的で無駄を省くことが効率化・合理化だと思っているが、無駄を省くことは強靭性と融通性を犠牲にしている。何かの拍子に想定外の事態が発生するとたちまち対応できなくなる。現代の流通がまさにその通りである。通常通りに一定の流れが確保されていれば問題ないが、一旦不測事態が発生すると頓挫してしまい、回復には長期間がかかる。あちこちでトイレットペーパーだ、マスクだ、消毒薬だ、製造用部品だ、保存食糧だ、なんだかんだと騒いでいるのはまさにその一例でもある。自然界は無理、無駄、ムラをたくさん抱えているがきわめて強靭性と柔軟性を持しているのを少しは見習うべきである。

マスメディアの反省も必要だろう。

 私に言わせると、騒ぎすぎである。あることないこと騒ぎ立てることに終始熱中している。また、出てくるのは評論家やコメンテーターで本当の専門家はほとんどいない。肝心な情報に行き着くことはない。マスメディアで騒いでいるのが感染者数で、これの日々の増減に一喜一憂しているが、本質は感染者数ではないだろう。感染者数は実態を表すものではなく現時点で判明した不確定の数字である。そう考えると、私は常に重症患者と死者数に注目した。死者数は一番確定した数字であり、これを操作することはできないはずである。死者数から感染者数を推測し、重症患者から医療崩壊の程度を類推した。

新型コロナで重要なのは重症患者と死者である。

 この人達をどうするかが問われているのである。重症患者にちゃんとした医療が施され、死者の数を減らす努力をしなければならないのである。そのための経済的支援や物的支援や労働力支援や組織支援を考えるのが最重要であろう。医療施設に収容された感染者が何人回復し、何人重症化し、何人死亡したかの統計を厳密にとるべきである。これがサンプリングされた新型ウィルス検体の統計データとなり、このデータこそ最新情報として公開すべきであろう。

感染者の動向から自分がいつ感染するかと怯えている一般市民に日々の最新情報を与えるだけでは片手落ちではないだろうか。

 ウィルス対策は確率で冷静に判断すべきである。確率の低い部分はこれに応じた対策をすべきであり、当然確率の高い部分はしっかりと対策すべきである。ところが日本全国一律に最大限の対策を「要請」している。あくまで要請であって強制でないところも日本国らしいやり方ではあるが、みんな一律の対応をしているのも奇異である。例えば、コロナと一切関係ないもしくはコロナに遭遇する確率が極めて低い地域もあるはずであり、そこに最大限の対策を施さなくてもいいはずである。

自分で考え自分で行動する。

 これもコロナ禍の教訓である。みんなと同じで安心し、みんなと同じでないと相手を攻撃するような雰囲気は不気味でさえある。地方自治体も国としてはあくまで「要請」であり、細部は各自治体の首長さんに任せられているはずであるが、結局は日本全国ほぼ同じように要請が受け止められ、同じように行動している。日本人が勤勉であるといえば、聞こえはいいが、壮大な無駄がそのまま放置されている。このことは日本国民ひとりひとりにも言えるのではないだろうか。

新型コロナに対して国は各種の対策を講じた。

 しかし、この対策は果たしてコロナ感染防止に直接的に効果があるのだろうか?マスクの配布なんて全くの笑い話、国民一人一人に10万円渡しても休業補償金を渡してもコロナは止められない。冷静に考えればわかるだろう。コロナを止めるのでなく国民を救済しているだけである。コロナを止めるために何をしなければならないかが重要なんだと思う。そこの部分は政策として打ち出されることはなかったし、最終的には国民への要請で終わってしまった。

国はコロナ禍を特別なものにしてしまった。

 本来であれば、各行政機関はこのような想定外のことが生起しても従来の組織とやり方である程度対応できる強靭性と柔軟性が必要であるが、これがほとんど機能していないようだ。だから特別に外出しで新たに国が対応しなければならない状況だ。本来のやるべき業務はそちらに移行し、改めて始める事業が直ちに機能するわけもなく多大の時間を要し結局は役に立たない状況を呈している。本来の機能で対応すれば直ちに対応できるはずであり、国はその予算措置と指導・監督をすればいいはずである。

コロナ禍はたぶん今回だけでは終わらないだろう。

 そうであれば、次のために体制を立て直さなければならない。最悪の場合、国民に対する「要請」ではなく、「強制」できる環境も必要だろう。これはコロナ禍だけではない、阪神淡路大震災、東日本大震災、台風による風水害、なども同様である。今回のコロナ禍を何とか乗り切ったことをもって次も同様で済むと思ったら大間違いである。少なくとも最悪の場合を想定してどうすればいいか考えておく必要がある。考えることと制度を整えるのに金は要らないのである。

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