オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

公民について考える

2020年07月19日 | Weblog
私たちは「公民」なんです。

 普通には日本語で「市民」という言葉が使われる。市民運動とか、市民権とかが一般的であり、「公民」はあまり使われない。しかし、繰り返し言うが、我々は「公民」なんです。公民とは国または地方公共団体の公務に参与する権利・義務を有する個人である。日本では明治21年に公民権要件が規定され、日本に公民権が根付いていったが、戦後日本国憲法に見合う地方制度改正が行われ、公民権制度は廃止された。

制度は廃止されたが、「公民」の考え方は残っているはずである。

 我々が「市民」と言うとき、どうやら「公民」の考えが抜けている気がする。「市民」とは英語で「civil」であるが、本来「civil」とは国または地方公共団体に属する個人のことである。市民も同様であろうが、日本の場合はどちらかというと「市民」はバラバラの個人の集まりのような感覚で、集団に属しているという意識は薄くなってしまう。自分達が集団を動かしているんだという気概はなくなって、国や地方公共団体は個人と対立する概念でしかとらえられていない。

あなたも、国会議員で公務員で議会や長を通じて政治に参加できるんです。

 あなたは総理大臣でもあるんです。総理大臣として政治がいかにあるべきかを考えていかなければならないんです。それが公民としての権利であり義務なんです。反対にこれらの参政権が認められているのが「市民権」であり「公民権」なんです。果たして皆さんはそのような考えを持っているのでしょうか。独りよがりな意見を述べる人達に「あなたも公民なんですよ」と言ってやりたい。あなたも国や地方公共団体に属し、公務に参与する権利・義務を有しているんです。

そうであれば、自分勝手ないい加減な主張はできないはずです。

 あなたの国であり、あなたの地方公共団体(都道府県、市区町村)なんです。対立する概念ではないんです。国や地方公共団体が悪いのは公民としてのあなたの責任でもあるんです。そして、公民は選挙権だけでなく、被選挙権も保有している。われわれは果たして「被選挙権」を正当に行使しているのだろうか?「被選挙権」なんて一般人は当の昔に忘れ去られ全く関係ない世界に閉じ込められている。だから、政治に有用な人材が集まらないのだろうし、集められないのだろう。

この辺のところが戦後忘れ去られている気がする。

 戦前と戦後に断層があるのである。これをうまくつなぎ合わせる必要がある。戦前に日本国民として獲得した「公民権」と戦後に規定された「市民権」を歴史的に融合させなければならないと思う。どうも「市民」という言葉に本来の意味付けに乏しい気がする。なぜ「市」の「民」なのだろう。市町村の「市」と市民の「市」が一緒なのにも違和感がある。英語の「civil」を「市民」と訳したところに間違いがありそうである。われわれ国民が市民であることにも違和感がある。われわれは「公民」なのである。

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