オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

「形式」の尊重

2008年08月06日 | Weblog

日本人は形式を重んじる。

 武道、茶道、華道、書道、芸道など、まずは形から入るのが通常である。これは日本の文化であり尊重すべきである。しかし、世の風潮としてこれらの形式を古いもの時代遅れなもの無意味なものとして軽視する傾向が強いと思うがどうであろうか。これらの良さを理解するのは年輩の人達で、若者は「形式」に対してはどちらかというと拒否反応があるようである。要は美しければ、価値があれば、実力があれば、みんなが認めてくれれば「形式」なんてどうでもいいという考えが強いと思う。反対に形式にとらわれることや形式を強制されることに対し極端な拒絶反応を示す。

本来であれば「形式」には奥義とも言える深い意味がある。

 この深い意味を理解しようとしないで、「カタチ」だけを単に真似するだけでは意味がない。この意味がないことを繰り返すと「形式」は存在価値を失い、空虚なものになってしまう。若者が「形式」を軽視するのは、大人が「形式」の意味する本来の意義を教える努力を怠った結果であるとも言える。「カタチ」だけを真似させて、とりあえず格好だけつけさせるのは簡単である。手抜き教育をすると、このままで終わらせて良しとしてしまう。しかし、「カタチ」を真似させるのは全体の中ではほんの入り口の部分であり、本当の教育はそれ以降が重要となる。

ある究極の境地に達した人が、

 その状況を表現しようとすると難解な常人には訳の分からない言葉になる。これが簡単に説明でき理解できるようであれば、それはごく普通の凡人でも努力せずに到達できる水準でありたいしたものではない。この難解な観念的精神論を理解することを嫌って、「理屈ではない実践だ」という人もいるが、到達すべき目標も解らないで意味もなく試行錯誤しても身につかない。究極の境地に達した人がいて、その状況を表現した奥義があれば、この究極の境地に価値を見いだし追求する者はこの奥義を目標に試行錯誤をするしかない。

反対に難解な観念的精神論を振りかざして、

 偉そうに神秘的な表現をして実体をますます解らなくしてしまう人もいるが、果たして実体があるのかないのかを見定めるのは難しいものである。難解であればあるほど多大な試行錯誤と努力を必要とするが、実体がないのであればこの努力は無駄になってしまい、努力しても永遠に目標に到達することはない。これでは詐欺同然である。難解で神秘的であればあるほど「御利益」があると思いこむ人もいるようだが、果たして実体があるのかないのかはよく考える必要がある。

「形式」は強制されるものではなく、主体的に活用するものである。

 入門の段階では「形式」は便利なものである。あれこれと迷いを生じることもないし、無駄な労力を省くことができる。この「形式」は先人が努力して築き上げた知恵の集大成である。先人は様々な試行錯誤を繰り返してこの「形式」に至ったのである。まずは、この先人の境地を目指して奥義を究める努力をしなければならない。そこに実体があるかどうかは完成されたものを見て判断することになる。その判断力を養うには本物を自分の目で見るしかない。宣伝文句や伝え聞いたものや映像や解説書だけでは不十分である。自ら行動して自分の目で確かめる機会を作る努力をしなければならない。

「形式」を守るのは入門段階だけであり、ここで漠然とした目標をつかむ。

 入門段階に続くのは自分自身の築き上げるべきやり方や方法であり、その道のりは長くて遠い。その道のりを自分の足で歩き始めることに意義がある。道を作るのは自分であり、歩くのも自分である。この段階では周囲は助言こそすれ手取り足取り教えることはしない。そんなことをすればその人の個性をつぶしてしまう。自分で歩み始めた者に対しあれこれと細かく干渉し過ぎる人はその人の個性をつぶしているんだと言うことを認識すべきである。この段階で「形式」を持ち出して無理に押し込めようとする人も的はずれである。

「守・破・離」という言葉がある。

 まずは形式に基づいた基本を忠実に守る「守」から始まる。その次にはその基本を突き破ってより高いレベルを目指す「破」の段階になる。そして、最後には形式を超越した自分の境地を見つける「離」に至る。このようなことであろうか・・・。これが日本の昔からの文化である。ところが、「守」だけを教えて、最後まで「守」の段階のままに閉じ込めようとする教育がまかり通っている。しかもこの「守」は「カタチ」だけの「守」であり、画一のカタチさえできれば良しとする教育である。「破」「離」を目指すことも教えないし、教える側の教育者も「破」「離」に至っていないのに、教わる側が「破」「離」なんてとんでもないということであろうか・・・。かくして没個性が蔓延する。これは「形式」が悪いわけではない。

科学的思考には「形式」がなじまない。

 「形式」は既成の概念であり、これにこだわっていると科学は遅々として進まない。しかし、科学も入門の段階では公式であり基本モデルであり原理・原則である。「形式」が非科学的かというと、そうでもない。いろいろな昔からの「形式」を科学的に分析してゆくと非常に合理的であり科学的でさえあることが立証される。反対に「形式」は科学では立証できない分野までも包含して表現されている。しかもそれが結果として正しいのである。どちらが目指すべき目標として妥当かは考えてみれば解る。「科学」は「形式」をより理解するための分析手法にしかすぎない。

「形式」を形骸化させているのは、

 実体のないものにさも実体があるように見せかけてごまかしている連中である。このような無意味な「形式」は即刻止めなければならない。また、本当の奥義を究める「形式」に似せて「カタチ」を整えただけのものもある。「虎の衣を借りる狐」の類である。これだと人をだましやすい。公文書の様式も同じである。内容も権威もない文書でも様式に則って作成すると威厳が出てくる。お役所仕事というと定型用紙にこだわるのが通例だが、本来の目的(記載内容)を忘れてはならないと思う。様式を満足してさえいれば承認し、様式を満足していない理由で却下するというのでは本末転倒である。また、不必要なまでに内容のない形式にこだわるのも困ったものである。

「形式」にとらわれることを忌み嫌う人達がいるが、

 「形式」は尊重しなければならない。また、「形式」は常に見直して最新の状態にしておかなければならない。「形式」も時代とともに変化してゆくべきである。いつまでも昔のままの「形式」を馬鹿のひとつ覚えで繰り返していると時代に取り残されてしまう。世の中にあまりにも形骸化した「形式」があちこちに増殖しているのではないか。過去の資産を食いつぶしているだけの人達が多くなりすぎているのではないか。そのために「形式」が意味のないものの代名詞になっている。考え直すべきである。

警察官が暴走族の格好をして市民を取り締まったのでは、

 看護婦がイケイケネーチャンの格好をして治療をしたのでは笑い話である。カタチにこだわるのがいやであればこんなこともあり得るが、自分が警察官であり看護婦であることを証明し、こんな格好をする必要性と理由などをいちいち納得させ、なにがしかの権威を保ちながら仕事をこなしてゆくのは大変であろう。解決策は最初から警察官らしい看護婦らしい服装をして業務に就くことである。「男らしく」「女らしく」「学生らしく」「社会人らしく」「警察官らしく」「看護婦らしく」などと言うと一方的に反発する人が多いが、これは反対に自分にとって都合のいい面もあることを理解する必要がある(反対にこれを悪用する輩もいるが・・・)。確立された有用な「形式」を上手に使いこなすことは合理的なやり方である。


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