何か不祥事が起こると、その組織のトップと言われる人達が大衆の面前に現れて、
深々と頭を下げて、「二度とこのようなことのないように努力いたします」と反省の意を示す。そして、これで終わりである。これだけである。あとには何もない。質問にも答えないし、答えても「調査中です」「検討中です」「現段階では答えられません」「勘弁してください」であり、ひどい場合は「ノーコメント」と横文字を使って突っぱねる。「組織のトップがわざわざ頭を下げて謝っているんだからこれ以上何をしろと言うんだ」と言わんばかりである。まぁ、謝ることもしない人達がいるんだからその人達に比べればまだましかも知れない。
「謝罪」も必要ではあるが、二度と不祥事を起こさない対策も必要である。
今後の対策はどうなっているのか、調査方法は、処分方法は、規則の見直しは、組織の見直しは、教育は、そして何よりもトップはこの不祥事についてどう思い、どういう信念で対処しようとしているのか等々、何も明らかにされない。二度と起こさない決意があるのなら、そのための具体的な対策があってしかるべきである。どうやら「二度とこのようなことのないように努力いたします」という言葉は、お決まりのお題目であり、こう言えば国民に許してもらえるという免罪符でもあるようだ。また、これで済ましてしまう国民もおかしなものである。
「二度と・・・」と言ったその先に、「三度、四度、五度・・・」がある。
過去に照らしてみれば、おびただしい数の不祥事が発覚し、そのたびに「二度と・・・」と言う決意を表明している。この真意は、「(私の在任中は)二度と・・・」ということであろうか。そして、三度、四度と続くと責任をとって辞任してしまう。しかし、いっこうに不祥事は収まらないし繰り返されている。「災害は忘れた頃にやってくる」というが「不祥事は忘れないうちにやってくる」である。要は何も対策がなされていないのである。不祥事が続くと謝罪する組織のトップはだんだん上に上がっていき最後は「抜本的対策を施す」という伝家の宝刀が出る。
「抜本的対策」なんていらないのである。
現に起こっている不祥事を具体的に何とかしてもらいたいのである。その対策を考えてほしいのである。そして、具体的な対策を施してほしいのである。その積み重ねが組織をいい方向に改善して行くのである。「抜本的対策」の中身は、当事者を処分し、関係者の責任を問い、注意を喚起して各人の良心に呼びかけ再発防止を図る。トップが上になればなるほど不祥事に伴う影響と呼びかける範囲が拡大して行く。そして「抜本的対策」を打ち出した本人は「遺憾の意」を表明する。これでは具体的には何も改善していない。再度繰り返すことは目に見えている。不祥事の対象を排除し関係者を厳重に戒め教育的指導をしただけで原因や発生源を絶ったわけではない。
不祥事を100%なくせとは言わない。
そんなことは不可能である。100人の人間がいれば一人くらいおかしいのがいるのは自然の理である。かといってあとの99人もおかしいと疑っていたのでは組織は成り立たないし、たった一人のために本来の組織活動を制限されたらかなわない。不祥事は起こってもいいのである。問題は起こったときの対策である。不祥事が起こっても気づかずに放置されたままだとか、不祥事を隠そうと報告を怠るとか、事実を隠蔽したり歪曲したり、もっと問題は組織をあげて不祥事を働くということである。これはたった一人の問題ではない。たった一人から発覚した不祥事があとの99人の組織の不備を指摘している。その不備は断固として改善しなければならない。
組織のトップの人は、たまにはしゃれた謝罪をしてもらいたい。
「この不祥事は起こした個人の資質に起因するものであり、私の権限で断固として厳罰に処し組織から排除します」とか「これだけ組織が大きいとこんな馬鹿なことをする人もいるでしょう。寛大に見ていただきたい」とかである。組織の改めるべきところは謙虚に認め、その具体的対策を講じることは当然であり、時には「この不祥事は組織にとっていい教訓を残してくれました。早速このように改善します」というのもしゃれている。いずれも自分のやっている職務に自信を持って正々堂々としかも責任と権限を確実に行使している人でないと、このような謝罪はできないと思うし、また、このような謝罪でも国民が納得してくれるような寛容と理性を持った冷静な考え方が定着することを希望する。
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