オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

蛍とマムシ

2007年08月16日 | Weblog

私の住んでいる近くで蛍を見ることができる。

 是非見に行ってみたいと思っている。しかし、その場所は毒ヘビの「マムシ」が出ることでも有名である。かつて昼間にタケノコを堀りに行った時、私の足下で「マムシ」を見つけたことがある。木の棒で頭を押さえてペットボトルに入れ、集会所の近くで見せ物にして近所の人達に注意喚起を促した。このマムシは型は小さかったが「赤マムシ」と言われる種類で、猛毒を持ち、その道の業者(強壮剤)には高く売れるそうで近所のおじさんが引き取って処分してくれた。

マムシは夜行性であり、昼間は活動が活発でなく、

 こちらも見つけることができるが、蛍が鑑賞できるような夜はそういうわけにはいかない。二の足を踏んでいる所以である。蛍が乱舞する光景はロマンチックであり美しくもあり幻想的ですばらしいであろう。しかし、マムシはいただけない。咬まれたら命を落としかねない。そうではあるが、よ~く考えてみると「蛍」も「マムシ」も同じ生き物であり自然の環境の中では同じように活きている。「蛍」が良いやつで「マムシ」が悪いやつと思っているのは人間の偏見である。「蛍」は手厚く保護すべきだが、「マムシ」は直ちに退治しなければならないと思うのも人間中心の偏見である。

「自然保護」というと、このような勘違いをすることがよくある。

 「自然」は人間に都合のいいことも悪いことも含めて「自然」である。それなのに、人間に都合のいいものだけを保護し、人間に都合の悪いものは退治するような「自然保護」がまかり通っている。「自然」にとってはどちらも必要なものであり、片方を退治してしまうとバランスが崩れて両方ともが破壊に向かうことになる。「自然」を保護しようとするのなら、マムシに咬まれることも覚悟しなければならない。それがいやなら近づかないことである。ところが、蛍を見るために安全な道路を造り、みんなに開放して大勢の人を呼んで集める。当然マムシは住めなくなる。その他の生き物も住めなくなる。蛍の住む環境も悪くなる。蛍が少なくなる。蛍を養殖することを思いつく。かくして、蛍しか住まない「自然」の環境の中で「蛍」を鑑賞する人工の施設ができあがる。これは一体なんだろう。これは「自然保護」でも何でもない。自然破壊である。

「自然」は「都会」と対比して語られる。

 「自然」を求めるのはあくまで「都会人」である。田舎には求めなくても自然があるが、都会には努力して求めないと自然が手に入らない。「都会人」は都会に自然の雰囲気を残した人工の公園や街路樹や動物園や植物園を作ったが、それだけでは飽きたらずに田舎に本物の自然を求めて進出してくる。そして公園や街路樹や動物園や植物園と同じような感覚で田舎に保養地や観光地や自然公園を作る。都会人は毛虫やムカデや蚊や蝿や蛾やダニやナメクジやマムシが嫌いである。自然の中にこんなものが寄りつかないような環境を作り上げる。便利な文明を持ちこめば水も空気も土も汚すことになる。これは「自然保護」ではない。「環境破壊」である。

「自然を守ろう」と言うが、何のために守るのか目的がわからなくなることがある。

 「都会人」が週末に自然を満喫するための自然を残そうと主張しているのではないかと疑いたくなる。それとも、自分たちが失ってしまったので田舎の人達には失ってほしくないと思っている親心だろうか。しかし、自然を破壊している張本人はどう考えても都会人である。また、都会人のために田舎の自然が破壊されている。本当に自然保護のために考え直さなければならないのは都会人の生活そのものである。その生活そのものは確保して全く変えようともしないで「自然を守ろう」なんておこがましいと思う。

「伝統芸能を守ろう」とか「町並み保存会」とか「名所旧跡を守ろう」とか言うのも

 どちらかというと「都会人」側に立った言い方である。現地の人が主張する場合も「都会人」のことを考えて主張している。価値を認める「都会人」がいればこそ守る価値もある。これを「都会人」側の論理で強制されると「ほっといてくれ」と言いたいのが現地の人のホンネであろうと思う。強制するのが国であろうとどこかの団体であろうと同じである。そして、その保存されたものを求めて都会人が殺到し、一大観光地の様相を呈する。

この観光地化に反抗したある町がある(どことはあえて言わない)。

 住民は本当は住みやすい住宅に建て替えたかったが、町並み保存のため立て替えができない。おまけに、この町並み見たさに観光客が大挙して訪れ、住民の私生活までも覗いてゆく。たまりかねた住民はみんなで結託して表通りをトタンで覆ってしまったそうである。町並みは一挙に台無しで観光客は来なくなり住民の生活が守られたと言う。そのトタンで覆われた表通りを除くと住民の生活は何も変わっていないし、裏側はそのままである。住民の静かな生活は取り戻された。この話を聞いて何となく胸がスカッとする小気味良さを感じた。

都会人は便利で文化的な生活を追求し、

 気が向いたときに自然に浸り、昔懐かしい風景を楽しむことを要求する。そして都会人の便利で文化的な生活を支えるために周辺の自然が破壊され浪費されていく。自分たちはすでに自然を破壊し尽くして伝統文化を捨ててしまっているのに周辺の人達には自然破壊や伝統文化放棄を許さない。何かおかしいのではないか...。自然保護のために考え直すべき元凶を作り出しているのは都会人であり、それを拡大させているのも都会人である。都会人に都合のいいものだけを保護してそれ以外を捨て去る自然保護はとんでもない思い違いである。

自然保護はこのような一方的な思いこみの感情によるのでなく、

 本当に自然を守るためにどうすべきかを考えることである。根本的な解決はペットボトルでも合成洗剤でも牛乳パックでも割り箸でも節電でも節水でもない。これらは単なる言い訳のためのポーズにしか過ぎない。本当の自然保護はもっと別の根本的な解決策を必要としている。それは便利さや文化生活を根本から失うものでもある。都会人も少しは犠牲を覚悟で自然保護に貢献すべきである。

私には今でも昔の気になるある光景が忘れられなくて気にかかって仕方ない。

 高度成長期に関東周辺にダンプカーを総動員して産業廃棄物や建設残土やゴミを捨てて回っていたあの大量の廃棄物はどこへ行ってしまったのだろうということである。当時は押し寄せるダンプカーの排気ガスによる公害を周辺住民は問題にしたが、そのダンプカーの荷台には大量の廃棄物を積んでいたのである。関東周辺で整備された高速道路はさながらゴミ捨てのための輸送路と化し、地方のインターチェンジはさながらゴミステーションの基地になっていた。テレビに映し出される薄汚い荷台にカバーをした排気ガスをまき散らすダンプカーの隊列が異様であったのを今でも忘れられない。

近所でも時々この「ゴミ捨て」を目撃する。

 山林の人知れないところで建設機材を使って想像もつかないほどの大規模な深い穴を掘ってこの中にダンプカーで運んだ大量のゴミを捨てて埋め立てる。その後にはきれいに整地された土地が生まれる。地主にとっては二束三文の役に立たない不整地が有効利用できる土地に生まれ変わるのである。掘り出した山土も運び出して別の用途に利用されるようである。しかし、埋め立てられた「ゴミ」がどんなものなのかは全くわからないし、その影響がいつどんな形で現れるのかは誰にもわからない。こんなことを許して放置していいのだろうか不安でしょうがない。特に地下水に与える影響が懸念される。

行政側がこのような現状を知っているのか、ちゃんと監視点検をしているのか、

 業者も許可を得てやっているのかは知らない。ずっと昔から目撃しているし、大量の廃棄物を積載したダンプカーの隊列は今でも珍しくない。しかし、その現場を見る限り、こっそりと秘密裏になされている印象は拭えない。○○県許可番号××××とか、国の指定業者だという表示も皆無である。

星新一のショートストーリーに、ある日大地にポッカリと穴があいていて、

 この穴はいくら大量のゴミを捨てても吸い込んでしまう。人々はみんなこの穴に大量のゴミを長期間にわたって捨てた。そしてその穴の利便性も忘れ去ってしまったようなある日、空から過去に捨てた大量のゴミが降ってきたという話があった。自然のしっぺ返しを考えないでいい気になってやりたい放題をやっているといつの日にか取り返しのつかないことになる。すべてが都市生活の弊害である。


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