日本の挨拶はお辞儀である。西洋の挨拶は握手である。
お辞儀は、最も人間の弱点である頭部を相手に差し出して、しかも視線は相手を見ずに下に落とす。見ようによっては最も無防備な相手を信じ切った行為である。握手はお互いに目と目を見合わせて、お互いの手と手を握り合う。握手をしている図は握り合った手を中心とする点対称であり、お互いには全くの対等の行為である。
お辞儀も、相互にお辞儀をしている図は線対称であり対等であるが、
片方が一方的にお辞儀をしている図もある。この場合はお互いは上下の関係となり対等ではない。基本的に日本のお辞儀は相手に従順の意を示すもので、上下の関係を確認する行為であるということもできる。喩えは悪いが猿の社会におけるマウンティングに似ている。お辞儀をする者と受ける者との関係が基本である。
このように考えると、
お辞儀文化は基本的には上下関係に基づいたものであるとも言える。しかも上位の者に対しては徹底的な従順の意を示さなければならない。逆らうことは許されない。逆らうことは反逆であり、集団の秩序を乱す行為でもある。これは儒教の精神でもあり、そのルーツは中国である。中国の挨拶も日本と同じお辞儀に近い行為である。中国と日本はその精神の大本の起源で共有する部分が多い。
相手を信じ切るお辞儀という行為は一種の無謀な冒険でもある。
多民族が共存する社会では受け入れがたく、ここでは常に警戒心と疑惑をもって相手と対峙しなければならない。信じ切れると言うことは社会が安定して信頼でき平和である証左でもある。相手が裏切らないと言う確信があり、従順の意に対し相手が報いてくれると言う信頼があり、危険を感じさせない安心感がある。この行為は集団の中の人間関係に基づいて成り立っており、すでに築き上げられている社会生活を円滑に行うための行為でもある。いや、社会生活における人間関係を逐次確認する行為と言ったほうがいいかも知れない。
西洋の握手は上下関係は全くない。
どんなに偉い人と握手しようと一人の人間としては対等である。どんな偉い人であろうと個人同士は対等であるところから出発している。どんな偉い人にでも反対意見を堂々と述べることができる。これは反逆でも集団の秩序を乱す行為でもなく、個人のれっきとした権利であり、この権利は剥奪されることはない。この権利を主張するところから人間関係が成り立ち社会生活が営まれている。
このような違った挨拶の仕方をする国同士がおつき合いをする場合、
良し悪しは別として、その特性をよくわきまえておかねばならない。お辞儀と握手のどちらがより相手を信頼しているかは前述の通りであり、お辞儀は相手を信頼しきって従順の意を示す行為であり、握手はいまだ警戒心と疑惑ともった対等の関係でしかない。握手の国に対してはお辞儀の国はあまりに無防備で信頼しきってしまっては、いいようにあしらわれてしまう。また、握手の国がお辞儀の国の示した従順の意に報いてくれないと文句を言ってもこれまた仕方のないことである。
握手の国に対し、
お辞儀の国が一方的に従順の意を示せば事がうまくいくと考えたら大間違いである。握手の国は相手の出方と反応を見定めて、これに応対していこうと考えているのに、相手に弱点を見せたままで視線をそらして下を向いていたのでは、その意味する解釈にとまどってしまう。いくら握手の国とは言え無防備な相手を倒すことは騎士道に反するし、そんなことをすれば周囲から反感を買うことになる。対等な立場で応対してくれないと困るのである。
お辞儀は握手にも勝る究極の挨拶である。
全世界がお互いにお辞儀ができるようになったら地球はひとつになり世界平和が実現できるであろうが、世の中はそんなに甘くないし、世界はそこまで成熟していない。そうであれば、お辞儀の文化は時と場合により使い分けなければならない。握手の文化に対しては握手の文化で応対しなければならない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます