オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

身分と立場を考える。

2019年06月13日 | Weblog
テレビを見たりラジオを聞いたりしていると一般の人にインタビューしている場面をよく見る。

 その人達は、まるで一端の評論家気取りである。テレビやラジオでの評論を専門とする人達と同じようなコメントを述べている。多くのメディアに接していてたくさんの情報を取り入れて、それらを総合すれば自分なりの意見を上手に主張することができるのだろう。また、メディアを通じて取得した疑似体験で場慣れしているのかもしれない。生まれた時からメディア漬けになっている世代としてはお手のものだと思われる。

しかし、私は何か違和感を覚える。

 自分の身分と立場とを理解しているのか疑問に思ってしまう。あくまでも一般市民であり、一個人としてしか発信できないはずである。一般市民として、一個人として問われたことにどのように答えるかを考えなければならないのだろう。他人の意見を受け売りしても、周囲のいろんな意見を総合してまとめてみてもそれは自分の意見ではない。また、権威のある専門家気取りや、当該対象の上層部のお偉いさんか、政治家や学者や裁判官気取りである。

メディアの側にも一考を要すると思う。

 どういう目的で一般の人にインタビューしているのだろう。果たしてその内容が一般人の主張するものなのかどうか吟味する必要がある。一般人の意見も取り入れなければ片手落ちだから入れているだけだったら意味がない。確かに何を言っても自由だし何を報道しようと自由だが、情報の内容は同等の内容の繰り返しになってしまう。そこに何らかの新しい見地からの新しい情報がなければ意味がない。単なるメディアの使い捨てになってしまう。

そんな情報は流すなと言いたい。

 記者を現場に飛ばして、すでに何もない現場で中継させるのも違和感がある。事件当時の現場の録画映像で十分であるし、また、同じ映像を何回もくどいくらい繰り返し流す必要性も感じない。意味があるなら一般市民も納得するがどう見ても旧態依然としたやり方を踏襲しているだけにしか見えない。些細な事件はちょこっと流しただけで、その後は何のフォローもなくほったらかしである。こちらもおかしいなぁと思ってしまう。事件をどう扱うかの判断基準は誰が権限をもって、その権限は正当に行使されているのだろうか?

と、言いつつも、私は何様のつもりでこの記事を書いているのであろう。

 はい、「一般人」としてです。一般人の一個人として感じたことを素直に発信しているだけです。何にも、誰にもしがらみも利害も得失も権限も公権も持たない。マスメディアと違うことは、強制的な押し売りをしないことである。情報の選択権と判断は自分自身にある。マスメディアは受け手にとっては一方通行であり、一方的に受け取るしかない。情報を拒否し遮断することはできるが、それではせっかくのマスメディアが機能しないし、情報収集の手段を失うことになる。私のこの記事はそんなことはない。読むも読まないも受け取ろうと拒否しようとどのような判断を下そうと自由である。

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