昔から言われている言葉である。
学生時代はこの言葉の影響で、学問と言うものを強いられて、いわゆる机にかじりついた勉強をさせられた。昔であれば寺子屋で読み書き算盤に孟子孔子の教えを復唱しながら学んでいるような光景が一般的であったろうし、我々の学生時代も本質的には変わっていなかった気がする。しかしながら、「少年老い易く学成り難し」という言葉は老成した者が生み出したものであり、青春時代にある若者の言葉ではない。反対に言うと、青春時代を謳歌する若者の自由を奪っている側面もある。
「学」の解釈が問題である。
机に座っての読み書き算盤に孟子孔子だけが学問ではない。学問はあらゆる通常の生活の中に存在し、かえって後者のほうが実学で将来のために役に立つ本質的な識能を育てることができる。若者は机にかじりついていないで大いに青春を謳歌してもらいたいものである。何でもいいのである、とことん自分の夢を実現するための努力を惜しまずに精励してもらいたいと思う。「少年老い易く学成り難し」という言葉は、老人に近い者が昔を振り返って後悔している言葉かもしれない。
もっと若い頃に今現在後悔しないような努力をしなさい。
そんな風に若者に助言しているのであろう。自分のできなかったことを後悔しているのであろう。その自分ができなかったことが、果たして机にかじりついて勉強することであろうか?そうではない気がする。ましてや入学試験に明け暮れることが後々後悔しないこととも思えない。若い時にしかできないことがたくさんあるはずである。人生を計画的に計算された設計図に基づいて過ごすことも何か違う気がする。一生を通じて何かをやり遂げる気概を持って一貫してとことん追求すればいいと思う。
そうは言われても若い頃は何をやればいいのか解らないのが現実だろう。
そうであれば、自分の興味を持ったものを何でもやってみることから始めたらいい。あくまでも主観的に主体的にである。周りに影響を受けて振り回されたのでは自分が解らなくなる。一生懸命これを心がけていれば自然にひとつの道が見えてくる。自分の目標を見つけたらそれに向かって目標達成まで徹底的に努力し追求するのである。これは若者にしかできない。若者の時にやるべきことなのである。これができなければ「学成り難し」で後悔することになる。何度も言うが「学」とはいわゆる「学問」だけではない。スポーツでも芸術でも文化でも科学でも商売でも農業でも工業でもサービス業でも当然ながら「学問」でもいい。
自分の見つけた目標を達成するための「学問」を否定するものではない。
学問も大いに結構である。しかし、学問だけで終わらせる必要はさらさらない。中には学問だけに一生を捧げる人もいるだろうが、全ての人がそうではないはずである。それなのに若者を「学問」だけに縛り付けるのには反対である。義務教育では仕方ない面もあるが、それ以降は本人の自由に任せる心構えが必要だと思う。確かに怠惰で非生産的で破壊的な行動に対しては年輩者が教導することもあるが、それ以外は自由な発想であらゆるものに挑戦することを制限する必要はないと思う。
年齢を重ねるにつれて、若い頃に戻りたいという人達が増える。
しかし、私はそう思わない。紆余曲折があって人生という山をこれまで登ってきたのである。また麓まで戻って登りな直そうという気になれない。確かに若い頃の不勉強に後悔もあるが、不勉強は不勉強のままに人生が成り立っている。いい加減で中途半端な性格は相変わらずである。しかし、こんな性格は若い頃に戻ったからといって修正されるものではないだろう。これは私のアイデンティティーに違いないし、これを捨てたら私がなくなってしまう。ただ、身体は若い頃に戻りたい気がするが、今のところそれほど不自由もしていないし、きわめて安定して健康である。
若い頃、不真面目な生活をしていたことを私は後悔していない。
不真面目であったからこそ、いろいろな経験もできたし、やりたいこともやってきた。決して模範的でない不良学生であったが、そのおかげで生真面目な模範学生では経験できなかったことがたくさんやれたと思っている。そして、今である。仕事からも解放され、子供も独立して、本当の自由を謳歌できるようになった。これからが私の充実期である。また青春に戻って、何に没頭して何を目標にして何を成すかを模索中でもある。「少年老い易く学成り難し」ではあるが、少年の気持ちを忘れないで成り難い「学」をさらに追求したいものである。
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