オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

権利と義務

2017年11月06日 | Weblog
権利を行使するためには義務を果たす必要がある。

 義務を果たしているから権利を主張できるのかもしれない。どちらが先かわからないけれども、権利のために義務を果たしたり、義務を果たしたから権利を主張するのは何か違和感がある。権利と義務を明確にするためには厳格な契約を結ぶ必要があるが、社会生活の中でいちいち契約行為を念頭に置いて権利と義務を遂行したのではあまりにもギスギスした思いやりも感謝の気持ちも信頼関係もないうすら寒い世界が広がってゆく。これでいいのだろうか?

電車の中で体の不自由な人に席を譲るのは、

 権利でも義務でもない。目の前に困っている人がいるからその人を助ける行為以外の何物でもない。ましてや、損得勘定で席を譲っているのであれば、その善意は中身のない温かみのない空虚なものになってしまう。反対に損得勘定ばかりであれば、誰も席を譲ることはしない。引き続き座れるのと席を譲って立たなければならないことを損得勘定で選択する場合、当然座っていた方が楽で得をするし、たとえ今席を譲っても、その見返りがいつあるかは見当もつかない。権利を振り回すわけでも義務を強制されるわけでもない。

この頃は何でも権利と義務で片付けてしまう。

 そして、最終的には損得勘定で「金」に結びつけてしまう。たとえば、夫婦で家事を分担すると言う。家事を夫と妻の分担に区分して決めてしまうそうだ。それぞれの分担分にはお互いに手を出さないと言う。何だか味気ない感じがする。目の前にやるべきことがあればその都度夫婦のどちらかがやればいいではないか。家事は基本的に男でも女でもやれる。それをあらかじめキッチリと分担することにあまり賛成はできない。そしてお互いに自分の分担分をやることが義務化している。なんか夫婦間の契約みたいである。

夫婦間で家事を権利と義務でやるのは何とも味気ない。

 相手が義務を果たさないと不満が出たり、私は義務を果たしているのにやってくれないと不満が出たり、やってもらっても当然と感謝の気持ちも起こらない。都合で自分ができない場合は相手に謝罪を入れなければならない。なんともややこしくなる。夫婦間のコミュニケーションも少なくなってしまうのではないだろうか。目の前にやるべきことがあって、自分でするのか相手がするのかをお互いに調整して、やってもらったらありがとう、相手ができなかったら自分がやるということで、十分だと思う。そして、当然男性が得意な仕事と女性が得意な仕事がある。それはお互いに判断して決めて行けばいいだろう。そして自分でできないことは相手に頼むのである。そういう中でコミュニケーションが生まれてくると思う。

私は義務感で私のために何か物事をやってもらうことには抵抗がある。

 また、日常生活で権利を主張して義務を強制されることも抵抗がある。義務感でやられるのであったら自分でやった方がいい。また、日常生活で権利を主張される筋合いもない。相手からやってもらったら感謝で、相手が困っていたら助けてやるだけである。やってもらえなくても相手を非難したり、相手を助けて感謝されなくても当然と思っている。しかし、このやり方だけで何も不自由せずに生活が成り立っている。かえって円滑に物事が回っている。

相手も私と同じ考えだと思う。

 だからうまくいっているのだろう。反対に同じ考えでない人は関係が疎遠になって私の前から消えてゆく。それでいいのではないだろうか。少なくとも私の親密な関係者の中に権利義務を振り回したり損得勘定で判断したり金銭丸出しの契約行為で縛るような人はいない。商売人ならいざ知らず、通常の人間関係ではこんな人は敬遠され友人とは言えない。相手が信用できないからこのような行為に及ぶのであり、信用できない関係はもはや友人ではない。

権利・義務や損得勘定を振り回す人は、

 その次に絶交が待ち受けていてもかまわない人でもある。絶交を覚悟でこのような行為を行っているともいえる。だから、大都会の人間関係が疎外されている環境で、初対面でその後も継続して良好な関係を継続しようという意思のない人に生まれる。一回こっきりだけを際限なく繰り返せば、あとはどうでもいいのである。大都会であれば一回こっきりは無数に転がっている。何も不自由しないのである。そして、そのような生活も成り立ってしまうが、何か空しい気もする。

世の中何でもかんでも経済で評価するけれども、

 経済だけで世の中が回ると思ったら大間違いであり、経済だけで世の中を回したら、たぶん、経済そのものも成り立たないだろう。経済が成り立っているのは経済以外のたくさんの要素が経済を支えているからであり、経済は一つの指標にしか過ぎない。そして、右肩上がりの経済、無限に拡大する経済が望ましいとも思わないし、そうでなければ社会がうまく回らないのは、経済以外の何かに原因があるのだろう。権利・義務や損得勘定をもう一度考え直してみるのも一考かもしれない。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「改革」を呪文の如く唱える選挙 | トップ | 人間は怠惰な生活が通常では... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事