自然と人間との調和を考える時、
どうしても人間主体に考えてしまう。現代人は特にそうだ。自然は自分たちで制御できると鼻から思い込んでいる。ところが、実際はこれが人間の驕りであり浅はかな考えであり、まるでやんちゃで暴力的な腕白坊主みたいに人間は自然の中で好き勝手にふるまっている。ある程度の範囲なら許されるかもしれないが、もはや許されない領域に踏み込んで、最も危険な自然の破壊者になりつつある。
昔は人間と自然は調和していた。
まずは、自然に畏敬の念を抱き、自然を制御するなんて考えは全くなかった。自然は人間に恩恵を与えて人間は自然を中心に考えていた。自然を自然なままに繁栄させるために人間が手助けすることをできる範囲で行ってきた。その結果として自然と人間の調和が図られていた。人間も自然の一部で、その人間が果たすべき活動を放棄したら自然も乱れてしまう。
現代人は人間の果たすべき活動を放棄し、
なおかつ自然に一方的に負担をかける行為を繰り返している。自然は利用するもので、無尽蔵に存在していると考えている。自然は育むものだという気持ちも、自然を大切にして畏敬の念を持つという気持ちも亡くしている。そして自然破壊という未知の世界に突き進んでいる。自然を破壊したらどうなるかという見通しは全く持ち合わせていない。
自然は内にも外にも無限である。
どこをつついても無限連鎖の世界が広がっている。無限連鎖は局部の連鎖の完結によって調和が保たれている。あちこちの局部連鎖を手当たり次第破壊してしまえば全体の連鎖にどのような影響が出てくるのか想像もつかなくなる。そんな想像もできない世界に向かって人間は突き進みつつある。危なくてしょうがない。
局部連鎖を破壊したままにしてはいけない。
破壊した部分は修復しなければならない。その努力を怠ってやりっ放しにするから破壊が生じる。子供に躾けをするように、使ったら元に戻すし、散らかしたら片付けるし、汚したらきれいにするのが当然の行為である。ここを手抜きしないようにすべきだし、最終的に元に戻らない、片付けられない、きれいにならないような行為は最初からやってはいけないのである。
どんな建造物でも、最後は元に戻せないといけない。
巨大な建造物があちこちにあるが、これが最終的に元の状態に戻せるかというと疑問である。ダムを作るのも結構だが、元の自然を維持したまま存在しているか、これまた疑問である。宇宙に衛星を次から次に飛ばしているが、これは回収できるのか、炭酸ガスを放出しているが、これは最終的にどうするのか、海にゴミを海中投棄しているがそのゴミはどうなるのか、すべて無責任と言えば無責任なままである。
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