東日本大震災以降「絆」が脚光を浴びている。
「絆」は本来は動物をつなぎとめる綱のことである。これが転じて断つにしのびない恩愛のこととなっている。「絆」そのものは、良い事も悪い事も含めて繋がっているもので、だからこそ「絆」でもある。損得勘定で考えても、同じである。損しても得しても 「絆」で結ばれているのが真の「絆」であろう。
東日本大震災での 「絆」は、
被災地の人々と復興を支援する全国の人々との「絆」でもあるが、被災地の人々同士の「絆」でもある。 特に危機的な状況にあるのが被災地から全国にバラバラに避難している人々同士の「絆」である。このまま放置したらこの「絆」は切れてしまう運命にあるが、震災後1年経った今も対策は遅れたままである。
「絆」は強制できるのだろうか?
私はできないと思う。繋ぐのも断つのも個人の自由である。個人の「繋ぎたい」という 強い意志があって「絆」は維持される。その意志は損得勘定だけかも知れないし、損得勘定を超えたものかも知れない。家族であり、親族であり、先祖であり、隣人であり、同級生であり、職場であり、村であり、町であり、 郷土である。どちらかと言うと損得勘定を超えた 「絆」が主体であろう。
「しがらみ」とか「係累」という言葉がある。
「しがらみ」や「係累」とは心身を拘束するわずらわしい物事の事である。これらを断ち切れれば自由になり気楽な生活ができるが、断ち切ることはそのまま「絆」を切る事でもある。「しがらみ」とは、本来は水路に設けた柵の事で、不要なものを堰き止めて除去するものであるが、損得勘定で考えたら「しがらみ」や「係累」として真っ先に断ち切られるのは被災地と言うことになる。そんなことはないだろうし、日本の国がそんな国民性ではないと信じている。
「絆」を強制する人がいる。
この頃はこの「絆」を「しがらみ」や「係累」として自ら断ち切って、わずらわしさを一掃してしまう風潮があるが、これでは最終的に個人がバラバラに孤立してしまう。これは、やはり間違っている。この強制された「絆」に悩まされている人達もたくさんいるが、弱い「絆」は切れるのが自然であり、強い「絆」はなかなか切れない。 弱い「絆」を切るのが悪いと言われても困ってしまうし、強い「絆」を無理に強制されても困ってしまう。震災後は新たな 強い「絆」が創生され新たな歴史が開かれるのだろう。そのための支援でなければならない。
元のままにするのが復興ではない。
過去と現在を繋ぎながら、新しい郷土を創生しなければならない。過去と現在を強い「絆」で結ばなければならない。これが可能になれば、弱い「絆」も自然に修復され、強い「絆」に育つ と思う。 過去と現在を結ぶのは先祖代々子々孫々であり、郷土の歴史である。震災と津波で破壊され郷土として新たな歴史を創生し歩み始めなければならないと思うし、それを期待する。
福島原発事故の対策はどうするのだろう。
人の住めない汚染地域は当面は放棄せざるを得ない。早い時期に結論を出すべきだろう。そして、代替地を提供すべきだと思う。周辺には代替の土地がないわけではないし、買い上げるか開発をして新しい郷土作りに着手しなければならないと思う。そのような前例はダム建設などの場合にもあるし、何も原発事故が特殊な訳ではない。
何故前に進めないんだろうと首を傾げるばかりである。
重要度の低い広地域の除染に予算を注ぎ込むよりも、こちらのほうが優先度は高いと思う。何度も言うが、震災後すでに1年が経過しているのである。「絆」は崩壊しつつあるし、時が経過すればするほど「絆」は消滅してしまう。消滅した「絆」を元に戻すことは不可能に近い。何のための復興なんだろうと思ってしまう。復興を支援する側の考え方で対策するのではなく、全国に散らばった被災者の立場で対策を考えたいものである。
最新の画像[もっと見る]
- 議員先生と学校の先生との違い 2年前
- SDGsともったいない精神 3年前
- 発想の転換 3年前
- 発想の転換 3年前
- ワンニャン仲良し 18年前
- ワンニャン仲良し 18年前
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます