オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

生きているから死ねる、死ねるから生きていられる

2020年09月17日 | Weblog
よく考えてみると、生きていなければ死ねないのである。

 生きているから死ねるともいえる。今の瞬間の生きている状況がなければ死ねないのである。黙って無抵抗のままで死んでゆくわけではなく、今現在の生きるためのあらゆる努力をしているからこそ死ねるのである。そんなことを考えると、死ぬのがもったいない気がする。そんな心境になるのは、今現在が充実して幸せだからなのだろう。感謝すべきである。

生きていることが不思議に思えるが、現に生きているのである。

 この世に生を受け、この世に生まれてきたのである。何故私が生まれてきたのか、私という存在はいったい何なのかと問うても明確な答えは得られない。しかし、私自身が存在し、この世に生きているのである。私が死んだら私はすべて消滅してしまうのかと不安になるが、その私が今存在しているではないか。死後も再び自分が生を受け生まれ出ることを否定できないであろう。現に私が生きているではないか。

そんなことを考えると、死後の世界も存在すると確信する。

 肉体は滅びても私という存在は永遠に存在するのだろう。肉体が滅びただけで私そのものが消滅するわけではない。いつ、どんな形で生まれ変わるかは知らないが、私という存在が未来のどこかでまた姿を現すのだろう。そのための死かもしれない。死は生まれ変わるための通過点なのだろう。そうでなければ今の私の存在が確信できない。今の私も過去に存在した私の生まれ変わりなのだろう。

いつか死ねるから今を生きることができる。

 死ぬことを前提に今を精一杯生きることができると思う。今の私のままで永遠に生きれるとなれば、なんと退屈なことだろう。日々の暮らしも同じである。一日の区切りがあるからこの一日を大切に生きることができる。天文の成せる業ではあるが、昼と夜の交錯する一日という単位はなんと素晴らしいものであろうか。と同時に四季の移り変わりの春夏秋冬を繰り返す一年という単位も素晴らしい。人間がこれを数字で数えることにはあまり意味はない。

1日、1年の生を支えるものはいったい何だろう。

 それは、より良いものへの向上心だろう。今日よりも明日、今年よりも来年、自分をよりよくするための努力が今現在の自分の生活を支えているのだと思う。何がより良いものか、何を目指すのかは私自身そのものでもある。その答えは私自身の中にあり、一つ一つの判断は具体的にあっても、その判断の基準なり価値感は自分でも説明できない。直感でもあり第6感である。統合判断と言ってもいい。

自分空間は無限の宇宙空間にも通じている。

 日本の国があるのも、地球があるのも、銀河系があるのも、太陽があるのも、みんな現実なのである。その中に我々が肉体を授かって生かされているのである。肉体は滅びても自分は永遠に存在するのだろう。たとえ宇宙がなくなっても存在し続けるのだろう。時間とか空間とかを超えた存在なのだろう。この存在は今現在を無限小に分析していっても感じることができる。

単位時間での変化は現実に認識できる。

 1日後、1年後の変化は認識できる。これを無限小に短縮していくと、時々刻々の変化を認識することは不可能になる。これが私という意識の正体なのだろう。私がある判断を下した前後に何が変わったのか、いつ変わったのかははっきり言って自分では認識できない。ところが一定期間が経つとある決断が下されているのである。これが自分の正体である。そう考えると、自分探索が楽しくなる。そして、此岸では無理かもしれないが、彼岸では下っ端でも使い走りでもいいから神様の一員になってこの世の人間のためにより良い世界を目指して精進したい。

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