オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

利便性と個人の生活

2009年06月27日 | Weblog

テレビのチャンネルについて面白いことに気づいた。

 私は、テレビ局を気にしないで適当にチャネルを変えて無作為に番組を選んで見ているし、気に入った番組がなければ消してしまう。ところがテレビ中心の生活をしている人は、何曜日の何時から何チャンネルでどんな番組があり、このテレビ番組編成に生活リズムを合わせているようである。テレビ番組を見ただけで何チャンネルかが解るし、新番組の場合は「これは何放送?」と気になるらしい。私の場合はNHKとその他くらいしか区別がつかない。そして気に入れば教育テレビでも放送大学でも教養番組でも見る。どちらかと言うとガチャガチャした娯楽番組よりこちらの方が落ち着いて見ることができるし自分の生活を乱さないので都合がいい。

人間はすばらしいものである。

 1週間の自分なりの番組編成を作ってこれで生活している。何曜日の何時は何を見なければならないと決めている。そのため、時たま私がNHKの教育テレビを見ていると「これは何チャンネル?何放送?」と聞いてくる。この人の番組編成にこの番組は入っていないのである。第一、NHKの教育テレビなんて頭から馬鹿にして見ようとさえしないようである。目の前にあるものをそのまま見ていれば見落としてしまうことはないが、選択情報を見ていると選択されないものは未来永劫見落としてしまうことになる。分野をいくら広げても含まれている要素は同じであり、探求するものも同じであろうと思う。変なフィルターをかけて見落としを作ってしまっては事実が見えなくなる。

情報化社会になって利便性が革新的に増大したと思われている。

 しかし、例えば、昔はひとつの情報しか入らなかったが情報化社会になって100の情報がはいるとして、結果に対してどんな影響があるのか。ひとつしか情報の入らない人と100の情報が入る人が競争した場合は後者が有利かも知れないが、決断した内容がうまく行くかどうかはやって見なければ判らないし、全員が100の情報が入るようになったらこの情報の差はなくなってしまう。反対に少ない情報で分析をしっかりやった方が本質的に正しい結果を得ることが可能になることもある。情報が多すぎると本質を見失うことにもなる。大胆な結論は削り込まれた情報から得られる。情報がいくらあっても重要なのは「分析」であり、分析するのは個々人である。

輸送手段の発達により時間・距離が短縮されたが、

 例えば、時速4キロで歩くのと、時速100キロで高速道路を移動するのと、結果に対してどんな影響があるのか。一時間当たりにすると行動範囲が4キロ四方か100キロ四方かの差はあるが、個々人が得る情報量はどちらも同じである。4キロ四方の方が濃密な情報収集ができ、100キロ四方の場合は概略の情報収集しかできない。その情報に含まれている本質的な事実は基本的には同じだと思う。100の情報をざっと眺めるのとひとつの情報をしっかりと眺めるのとでは結果として得られる結果自体はそれほど変わらない。結果に対する信念としては後者の方が強いのではないかと思う。

禅の修行を考えてみると面白い。

 禅の修行において多種多様な能力を必要としないし、多種多様な修行を強要しない。例えば、僧になるための条件として課せられるのは、お辞儀をし続けることや壁を見つめて座り続けることである。とにかく難しいことは何もない。簡単なことをやり続けることである。ところがこれが凡人には到底できないし、やるためには透徹した人生観を必要とする。そのための修行で得られることは種々雑多な多種多様な経験から得られる能力よりも高いし、深さも比較にならないほどだろう。これはいわゆる文明社会が指向する方法では到達できない目標でもある。あらゆるものを見せられると言うことは本質が見えなくなることでもあり、本質を見出すためには目をつむらなければならない。情報を捨てることの重要性を示唆している。

情報化社会が未発達な中では「情報」が武器になるが、

 社会全体が情報化された中では流通している「情報」そのものは武器にならない。「情報」を個々人が分析した結果としての個々人の「意志」が重要になる。その「意志」を見ることで個人を識別でき評価できると思う。そう言う意味で「情報」を武器にした人を私は信用しないし信用できない。「情報」を知らない人の弱点につけ込むことによって相手を陥れている。武器とすべきは「情報」そのものではなく「情報」を分析することによって得られた新たな「情報」であり、これを創出するのは個人の努力であり個人の能力である。情報の海の中で個人の視点と観点と信念に支えられた鑑別能力が問われるのである。それはあたかも禅の修行のごとき様相を呈する。

便利な道具がいろいろあるが、

 「道具」は「道具」であり、これを使って何をするかが重要である。ただ単に「道具」をもてあそんでいるだけではいつまで経っても目的は達成しない。「自動車」「電話」「FAX」「パソコン」「インターネット」などいずれも同じである。ところがこの道具を遊び感覚で暇つぶし時間つぶし退屈しのぎに使っている人が多い。道具を使うこと自体が目的化している。そして「道具」を売る人は利便性だけしか強調しない。「便利になってだからどうした?」と言われると困ってしまう。「最高級の絵の具と筆とキャンバスを用意しました。さぁピカソの絵でも何でも描けますよ」と言われても困ってしまう。この道具を本当に生かすのは「個人」である。

統計をとるときに「サンプリング」をする。

 一番良いのは全体の統計をもれなくとることであるが、手間がかかるので無作為に抽出(サンプリング)したもので統計をとる。サンプリングの数が多ければ多いほど正確性は増すが、ある程度以上はほとんど影響なくなる。分析の手法としては、一部分を徹底的に分析する「狭く深く」のやり方と全体をまんべんなく分析する「広く浅く」のやり方がある。通常自然界の現象はどちらでも結論は同じである。一部分は全体の一部であり、全体は一部分の集合体であり、一部分も全体も要素としては変わらない。ただし、分析のやり方を誤るといずれの方法でも間違った結論が出てしまう。どちらかと言うとサンプリング数の多少そのものは正確性には寄与するかも知れないが結果の善し悪しに直接影響しないと思う。全体を見た分析も一部分を見た分析もそれなりの価値があり真実を表現している。そして一部分を見た分析の方が時には鋭い見方になる。

利便性は我々にとって反対に仇になる。

 便利だと言うことは考えることをやめてしまう。不便であればひとつひとつを考えるところから出発しなければならない。だからといって利便性を放棄することもない。何を利便性に頼り何を自ら考えるかを明確にすればいい。そして重要なのは「自ら考える」ことであり、「自ら考える」時間と労力の余裕を得るために利便性を活用するのである。利便性によって得られた時間と労力は「自ら考える」ことに指向されるのである。どこまで行っても「自ら考える」ことから逃れることはできないし、その比重は情報化社会の中でますます増大して行くし、増大しなければならないのである。くだらないことに使われていた「自ら考える」ことがより質の高いものへと指向されなければならない。これこそが本当の情報化社会である。


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