オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

西暦2007年の終わりに・・・。

2007年12月31日 | Weblog


1000年(ミレニアム:millennium)という単位がある。

 自分が生まれるのには少なくとも父親と母親の二人が必要だ。昔は平均寿命が短かったので出産年齢を推定できないが、一例として平均25歳で出産したとすると、一人の人間が現存するのに1000年とは40世代が累々と継続してきたことになる。一人を産むのに少なくとも二人が必要で、これをねずみ算で計算すると2の40乗となり、自分が現存するためには1000年の間に1,099,511,627,776人のピラミッドの上に立っていることになる。この内の一人でも欠けると自分は存在しない。約1兆1千億人である。世界人口が約60億人であるので、この183倍であり、天文学的数字に近い。

我々はほとんど奇蹟の中で生きているのである。

 1000年と言う数字はとてつもない重さがある。この累々として継続してきた世代をなんとか後世に繋いで残して行くのが我々の使命であろう。そうでないと自分を生かすために生きてくれた約1兆1千億人の先祖に申し訳ない。人類の誕生もしくは地球の起源から計算すれば話はもっと壮大希有でほとんど想像がつかないほどの奇蹟である。生きているのが不思議なくらいである。だいたい地球の誕生そのものも奇蹟に近いのである。単なる結果であるとは言え一概におろそかにはできない。この奇蹟が未来に続くのである。

この大自然の壮大な営みを乱すような原因を作ることは

 いくら文明とはいえ科学とはいえ許されない。ほとんど奇蹟で存在する我々の存在そのものを危うくすることになる。現在と未来を結ぶ奇蹟の糸が切れてしまう。何がその原因になるかは想像もつかないが、不可抗力は別として、少なくとも自らその原因を作ることは断固としてやめなければならない。人間はそのことに気づきはじめている。あとは、これを正面から正視して現実としてとらえ、無視したり逃げたりしないで具体的に対策をしなければならない。解っていても止められない、生きるためには仕方がない、部分的にやっても意味がない、当分は大丈夫だ、自分さえよければ、では済まされない。自分自身が今生きている存在価値がなくなるのである。

科学的思考とは本来矛盾を解明するものではなかったのか。

 ただ、これまでは思考の対象期間や空間的範囲が短く狭かっただけである。当面の局部的なことだけしか考えず、浅はかだったのである。無限大だけでなく無限小に対しても浅はかであった。そして、文明が進んでその浅はかさを自覚するに至った。その及ぼす害悪が現実のものとして世の中に現出するに至った。

今こそ正念場である。

 無限大無限小に続く雄大な世界に思いを馳せ考え方を変えなければならない。その解答は脈々と続いている雄大な自然の中にある。自然の営みを乱さなければ自然の中の一生物である人間としては何も問題ないのである。自然に優しい、自然と調和した、自然に負担をかけない、生命活動に害悪を及ぼさない、将来に借りを残さない社会を地球規模いや宇宙規模で目指さなければならない。 

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