2008年の私の今年の抱負を「感謝」とした。
この1年、感謝の気持ちを忘れないで過ごしたいと思っている。この頃の風潮を見ていると、やってもらって当然、金さえ出せば何をやってもいい、自分でやるのはいや、嫌々やるのは金儲けのため、という感じが強い。これではやってやる方もやってもらう方もいや~な気分になる。お互いに感謝の気持ちが欠けているのではないかと思う。
お金を出しているからといって、
受けたサービスを当然と思ってはいけない。本来であれば、支払ったくらいの端金ではそのようなサービスは受けられないのが普通だ。納得できる金額で妥当なサービスが受けられるのは、お店の人が苦労して店舗を構え、安くて良い材料を仕入れ、仕込みに手間をかけ、みんなに喜んでもらうために経営努力してくれたおかげである。これを長年に渡って継続して行くのも大変なことである。
お店の人も金儲けだけの目的で経営しているわけではない。
最終目的はみんなに喜んでもらい社会に貢献することを目指していると思う。お客はそのことに感謝しなければならないし、お店も個々のお客のおかげで引き続き社会貢献ができるわけで、来ていただいてありがとうと感謝しなければならない。お店は金儲けしか考えず、お客は金さえ払えば当然の権利、という関係では何とも味気ないしギスギスして意地の張り合いみたいでお互いに損こそすれ徳にはならない。気持ちの持ち方次第だけであるが結果は大きく違ってくる。
この頃、従業員の接客要領をマニュアル化している店が多い。
ブスっと突っ慳貪に接客されるよりマニュアル通りにやってもらった方がいいが、少々贅沢を言えば、人を思いやる心と感謝の気持ちをマニュアルの最初に強調してもらいたい。お客とどのような状況になろうと教わったマニュアル通りの言葉でしか応対が返ってこないのでは心が離れてしまう。まるでロボットと話しているようだ。
ファーストフード店にトイレを借りに入ったら、
「何人様でございますか?」「しばらくこちらでお待ち下さい」と待ち席に案内され、しばらくたって「大にしますか小にしますか?」「どうぞごゆっくりご利用下さい」となり、用を足した後、「お持ち帰りもございますがいかが致しますか?」と言われ、店を出るとき「毎度ご利用ありがとうございました」「またのお越しをお待ちしております」と言われたという類の笑い話がある。ここまではいかないが、義務感だけで応対し「心」が感じられない場面にあちこちで遭遇する。
東京ディズニーランドの従業員の接客教育は厳しいことで有名である。
マニュアルも微に入り細に入り事細かく決められているそうだが、教えられるのは「形」だけでなく「心」である。かつてディズニーランドに行った時、ぬいぐるみのグーフィーが幼児に近づいて顔を見せたら大声で泣き出されてしまった場面を目撃したことがある。このぬいぐるみがどのような行動をするか興味深く観察していたら、まず両手で両目を隠して後ずさりし道の端の方に寄って後ろ向きのまま横歩きで目立たないように幼児の視界から退散していた。ほんの些細なことではあるが思いやりの心が行き届いているのを肌で感じ、ほほえましい気持ちにさせられたのを覚えている。
たぶんこの従業員には、
何故そうしなければならないのかと言う接客精神も含めて教育されているのであろう。全身の動きから感じられるあの心配りは「形」だけでなくその「心」を理解していないとできないと思われた。ディズニーランドの従業員は全て理想の夢の国を演ずる演技者であり、施設は小道具でありセットであり、全てがショーに徹している。そのためにいろんな細部にわたるまで心配りが行き届いており、汚れや不備や見苦しい光景などは皆無である。これがいつまでも人気の続く秘密でもある。
私の遠い親戚に数々の立派な業績を残して、
今は悠々自適で余生を送っている偉いおじいさんがいた。この人は私に会う度に「あなたは国のためにどんなことをして貢献しているんですか?」「最近社会のために役立つようなことができましたか?」といつも質問されて閉口したのを覚えている。初対面で突然言われても答えに窮する。普段そんなことはあまり考えたこともなかったので頭の中はパニックで、しどろもどろの答えに終始した。2回目以降はちゃんと答えを準備したが、答えを出すのにもずいぶんと考え込んでしまった記憶がある。
社会生活において、このおじいさんの問いかけは重要だと思う。
この頃こんな見方をする人は少ないのではないか?「国のため」というと戦争中の苦い思い出を連想する人も多いかも知れない。目先の自己中心の利益だけを追求し、人のため、町のため、社会のため、国のため、人類のため、世界のため、という感覚にはほど遠い。下手すると「カネ」「カネ」「カネ」の世界である。外に対して要求するばかりで、とにかく「カネ」が最優先という考えでは達成感や充実感、幸福感を得られるはずがない。仕事を通じて社会に貢献しているという感覚を持つことは重要である。これがなければ永遠に不幸なままで心が満たされることはない。
戦後の貧しい生活環境ではとにかく生きることに精一杯で、
よりよい生活を目指してこれを目標とし生き甲斐とすれば良かったが、すでに裕福な生活環境を獲得してしまった今となっては、人々に新たな達成感や充実感、幸福感を感じることができなくなっており、ひどい場合は自分の存在感さえ見いだせない状態が続いている。この満たされない閉塞感を打破するためには、人のため、町のため、社会のため、国のため、人類のため、世界のため、に何ができるかを模索し追求する姿勢が必要である。「自分だけのため」から「みんなのため」に意識を改革しなければならない。
その手がかりのひとつとして考えられるのが「感謝の心」である。
「やってもらって当然」ではなく、「やっていただいてありがとう」であり、「金さえ出せば何をやってもいい」ではなく、「お金はやってもらったことへのささやかな感謝の気持ち」であり、「自分でやるのはいや」ではなく、「みんなのためなら進んでやる」であり、「金儲けのために嫌々やる」ではなく、「仕事を通じてみんなの役に立つ」という心を育てよう。そうすればやってもらう方もやってあげる方もお互いの存在価値を見出すことができ、やり甲斐も生まれ、達成感、充実感も倍増する。
感謝の気持ちがないとお互いに「カド」が立ち、白けた雰囲気になる。
そして、気まずい空気が流れ、気分を害するだけで何の徳にもならない。気分を害していいサービスが受けられるはずがない。だからといって料金はみんな一緒なのである。感謝の気持ちのない人は人間性まで疑われ、周りは敵ばかりになる。感謝の気持ちのない人は悪循環を繰り返し、悪い方向にばかり向かい、落ち込むばかりである。何もいいことはない。強いてあげれば、文句を言うことで憂さ晴らしができる事ぐらいであるが、そんな災いの種の憂さ晴らしなんか止めてゆったりとした生活をしようではないか。
感謝の気持ちを表したからといって損をすることはない。
感謝の気持ちは挨拶と同じ人間関係の潤滑油である。敵対関係をなくす賢い先人の知恵である。自分の心にゆとりと自信と誇りと思いやりがあれば心を込めた感謝の気持ちや挨拶が可能である。「ろくなサービスもしないのに感謝の気持ちなんて言えるか」と本当に思う人は、そんな店には断固として二度と行かないことである。それで十分自分の意志を表明している。そんな店は社会に十分貢献しているとは言えず、みんながそう思うようであれば早晩潰れるであろう。店主と知り合いでもない限り何も喧嘩してまでその店のために尽力することはない。
この話は何もお店だけにとどまらない。
政治も役所も学校も会社も工場も農林水産業もサービス業もみんな同じ考えである。サービスを受ける側は感謝の気持ちでやってもらい、サービスする側はこの感謝の気持ちに応えるべくやってあげる心があれば、他人事みたいな等閑で画一的な手抜きはできないはずである。その向こうにあるのは、仕事を通じて社会に立派に貢献することであり、いかにしたらより貢献できるかを常に模索することである。そこに生き甲斐もあり充実感も達成感もあり幸福感も得られる。社会の歪みも是正できる。感謝、感謝。
学校については、
特出しでコメントしなければならない。義務教育の是非である。教育体制が未熟な頃は強制的な義務教育も必要だったが、今は教育の機会は有り余っている。そうであれば、教育を受ける側に選択の自由を与えても良いのではないか。ただの義務感とお仕着せの教育では感謝の気持ちはなかなか育たない。学生も教師もお互い不幸である。向学心に燃える生徒と信念に基づく熱血漢の教師による沸騰するような教育が実現するような世の中を期待している。
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