権利・義務と義理・人情
日本における権利と義務は歴史的には一方的に外部(上部)から与えられたものであり、自ら勝ち取ったもの又は作り上げたものではない。それまでは義理と人情が国民生活を支えていた。それでは、日本国民が全て権利と義務の概念だけで考えられるかというと、そうではない。どちらかというと現実の社会生活は義理と人情で営まれている。権利だ義務だと声高に主張すればするほど、頭では理解し賛同はしてみるものの、現実の生活とはかけ離れた世界の出来事に化してしまい、人情的にしっくりこないし、義理を欠いた権利や義務は受け入れられない。この理論としての「権利」「義務」と実生活での「義理」「人情」からくる矛盾を常に孕みながら、実質的には義理・人情を、理論的には権利・義務を使い分けて器用に振る舞っているのが今の日本人ではなかろうか。
民主主義と官僚主義
民主主義も同じであり、一方的に外部(上部)から与えられたものである。それまでは、士農工商で、官僚である士が、農民・町人である農工商を取り仕切っていた。生来的には今の日本人も官僚主義の方が居心地がいいのであり、頭では民主主義を理解し賛同しても、実態はどっぷりと官僚主義の中に漬かっている。民主主義は一人一人の個性が大事であり、個性を主張するためには、与えられたものを自分なりに理解し、消化し、判断し、自分の中に取り込んで、自分の能力の一部として発揮する必要がある。しかも、問題があってもなくても常にその努力を怠らない心がけが必要となる。個人としての明確な主張のないところに民主主義は成立しない。日本人の場合は、ほとんどの人がその部分を官僚に完全に委託している。そして問題が起こった時に文句を言うことに徹しているようである。ある意味で効率的ではあるが、基本的に官僚主義に限りなく傾いた民主主義であり、最後の切り札として民主主義が登場することとなる。この民主主義の世の中で自分の個性を徹底的に主張する日本人がいたら、多分「我が儘な人」「協調性のない人」と片づけられてしまうのがオチだろう。
民主主義において政治がうまくいかない責任は国民にある。
だから民主主義なのである。政治がうまくいかないのなら国民が政治を変えられるのが民主主義である。良くても悪くても国民の責任であり、悪ければ国民が変えて行かなければならない。官僚主義の場合は政治の責任は官僚にあり、官僚の内部で責任が問われ、組織的な改善が図られる。民主主義でも官僚主義でも政治は健全に運営されるはずである。日本の場合は民主主義は善であり、官僚主義は悪であると観念的に決めつけている。悪いことが露呈すると官僚主義だと批判し民主主義に反すると非難する。普通以上の良いことは、どちらかというと民主主義的になされることなく、ほとんどが官僚主義に委ねられているがその存在価値をもあまり認識していない。普通以上の良いことについて民主主義的に国会で論じられることはほとんどない。悪いことが生起したとしても「国は何をしている」と不平を言うくらいである。要は国(政治)に全てをうまくやってもらうことを期待しているのであり、これは官僚主義に依存している最たるものではないだろうか。
「普通以上の良いこと」と言ってみたが、具体的には何だろう。
ある意味では水や空気みたいでどうでも良いことかも知れない。道路を整備してくれる、ゴミを収集してくれる、公共施設を整備してくれる、災害対策をしてくれる等々である。このようなことに対して個人が「このようにして欲しい」「もっとこうして欲しい」「このようなやり方にすべきだ」「無駄が多い」等の意見をぶつける機会があるだろうか?また、県や市町村にこのような意見を積極的に聞こうとする姿勢があるだろうか?反対に、これらのサービスがどのように決定され実行されているかはあまり知らされていない。県や市町村はトップダウンの一方通行でサービスし、市民はやってくれるなら文句は言わないと腹を決めている。これは義理・人情の世界であり、義理を果たしてくれる人達に文句を言う人はいないのである。納税の義務に応ずる当然の権利ととらえれば、もっと文句や注文が出てくるはずであるが、大問題にでもならない限り市民は監視することすらもしないようである。
反対に施策を実行する側から見ると、
昔のような官僚としての自覚に欠ける部分がある。国民のためによりよいサービスをすることを最優先にするのでなく、国民に文句を言われない程度に効率的(予算ではなく官僚の人的な手間)に仕事をこなすことに徹しようとする。国民に文句を言われない限りやり方は如何様にでもでき、予算を湯水のように無駄使いしようとあちこちにバラまこうと関係ない。最終的に国民の要求を満たし必要な民主主義的な政治手続きを経て結果的に公共の福祉を実現していれば何も問題ないことになる。当然不正も横行する。官僚主義だと非難するのもいいが、官僚には官僚のしっかりとした自覚を持ってもらいたいものである。官僚主義のいいところは踏襲すべきであり、国民の信任を得た事業をうまくやれるかどうかは官僚の手腕にかかっているのである。そして国民はその事業の成果や結果をしっかりと監視しなければならないのである。良いものはよりよくするために、悪いものは改善して行くために常に見守って行く必要がある。民主主義の主体は国民であり、国民一人一人が政治に関心を持ち、代表として政治を委任した官僚に対しては常に批判精神を持って評価して行く努力が必要なのである。
日本人には義理と人情も必要である。
なぜ、義理と人情を時代遅れとして捨て去ってしまったのだろう。現在では義理・人情というとヤクザ映画のなかでしか存在していないかのような印象である。外国人が日本を訪れて評価が高いのは、民主主義でも高度経済成長でもない。日本人の義理・人情に触れた時の奥ゆかしさ、思いやり、道徳観の高さである。日本人の精神、心を高く評価している。ところが、この頃、この日本人の精神、心が荒廃しつつある。学問的なことを言うのではない。日頃の行動、振る舞いひとつひとつに流れている日本人の感性の高さを言っているのである。これを教えることをせず理解もせず全く無視する風潮が続けば、日本人の精神、心はますます廃れていってしまう。古くても堅苦しくてもいいからもう一度「義理・人情」を見直すべきであり、精神はそのままで新しい日本人の「義理・人情」に発展させて行かなければならない。
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