靖国参拝問題が騒がれている。
私は軍国主義でも平和主義(平和主義も怖い事を知らない人が多い)でもないが、靖国参拝問題であまりにも馬鹿馬鹿しい論調が続くので一言自分の考えを綴りたい。まずは、宗教は全ての人間に分け隔てがなく、善人も悪人も対象としているし、いい事も悪い事も含めて神様は我々を見守ってくれていると考えるのが普通である。だいたいが、善人だ悪人だと決めつけるのは人間の馬鹿馬鹿しさであって、神様はそんな事を微塵も考えていない。
そんな宗教施設に対してA級戦犯を分祀しろという。
そんなことできるわけがない。どうしてもやりたかったら、参拝する人間が「私はA級戦犯を除いて祈ります」と宣言した後祈れば良い。いっそのこと「一般祈祷所」「A級戦犯を除く祈祷所」と参拝所を分けたらどうだろう。いずれにしても笑い話でしかないが、こんなことをマスコミが有識者を呼んで真面目に真剣に討論しているのが見ていて滑稽だし、そろそろいい加減にして欲しいと思っている。
A級戦犯と決めたのは極東軍事裁判である。
日本国はこの判決に対して異議を述べる事もできなかった。全てが裁かれたのか、無罪の者が罪に問われ、有罪の者が罪を免れているのか、果たして判決が正しかったのか誰も検証できないが裁判の結果は残っている。そんな裁判の結果を後生大事に戴いているのも不思議な気がする。本来、これを最終的に決めるのは日本の国であったが、誰もそのことに言及しようとしない。当時は日本国民全体が一蓮托生であったのかもしれない。戦争当事者でない戦後世代の者が改めて弾劾するわけにも行かない。
A級戦犯が全ての戦争責任者であり、戦争犯罪人であるというのなら、
判決内容について、もう一度自らの手でしっかりと歴史的に検証すべきであり、具体的にどんな罪を犯したのかを再度明らかにすべきである。ただの「人殺し」呼ばわりでは何も明らかにならないし、有耶無耶のままに放置されている事が世界の不信感を招いている。「人殺し」というなら、連合国側こそ「人殺し」になってしまう。何が原因で戦争に突入し、その原因を作ったのが誰で、どのような間違いがあったかを正すべきである。結果論ではない。歴史をひとつずつ検証してゆくしか方法はない。日本国として戦争に突入した確固たる考え方があるはずであり、そのことをもって良くても悪くても日本国の姿勢を正してゆくべきなのである。
靖国神社は第2次世界大戦の戦没者だけがまつられている訳ではない。
1853年以降の殉難者、戦死者をまつっている。最初は幕末から明治維新にかけて戦乱で戦死した者を各藩が「招魂場」に集め祭儀を行っていたのを東京にまとめて合祀し「東京招魂社」としたのが後の靖国神社である。各地には招魂場が護国神社として今も残っているはずである。1853年と言えば江戸時代である。そんな150年以上の伝統を引きずっている全国規模の神社にああだこうだと文句を言うのもおかしな話で、政教分離以前の問題だと思うし、他国から意見される筋合いはない。宗教を政治の具にしている典型的な悪例である。戦時中に同じく宗教を政治の具にし政治と宗教を一体化にして民心を操った同じような悪例がある。これも大いに反省すべきである。
次に、近隣諸国との国交問題とのからみである。
靖国参拝問題、即、近隣諸国との国交問題と短絡的に考えている人が多いけれども、靖国参拝問題は多数の要素のひとつにしか過ぎないし、靖国参拝問題が片付けば国交が好転するわけではない。根本的には歴史認識の差であって、国同士に歴史認識の差があるのは当然の事である。反対に視点が違うのに歴史認識が同じであるはずがない。「韓国や中国を刺激するのは良くない」という考えをする人が多いが、事なかれ主義に過ぎる気がする。歴史認識の相違点は当然の事として主張すべきであり、有耶無耶にすることこそ問題である。主張しない限り韓国や中国の歴史認識が日本の歴史認識と判断されてしまう。
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