オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

赤の他人との付き合い方

2021年01月25日 | Weblog
人間関係であちこちでトラブルが生じているようである。

 いわゆる知識人や評論家や有名人の方々は、お互いに理解し合えば解決すると助言している。相互に理解し合う努力をするべきだと言う。お互いが理解し合っていないことがトラブルの原因だと言う。確かにそうであり、お互いに理解し合うことが理想である。しかしよく考えると、世の中のほとんどの人は赤の他人であり、その赤の他人とお互いに理解し合うことは不可能である。そして、トラブルが起こっているのはほとんど赤の他人同士なのである。そして、理解し合っている同士であってもトラブルを起こしているのである。

理解し合えれば問題が解決すると言うのは眉唾のようである。

 問題は、理解し合えない同士がお互いの存在を否定して排斥し抹殺することである。どんなに理解し合えなくても存在そのものは認めて、相手を容認することが必要なんだと思う。もっと言えば、お互いが理解し合うと言うのはとっても困難なことで、理解できない相手が目の前にいる場合がほとんどであり、理解できたと思うのも一時的な錯覚である。相手は自分とは全く異なる個人なのである。これが大前提だと思う。理解できた部分はほんの少しで、お互いに同調できた部分で人間関係を築いているのである。

理解し合えなくてもいいのである。

 こんな人もいるんだと存在を認めてもらえば何も問題ないし、理解し合えないままでお互いに問題なく存在できれば何も問題ないはずである。まずは、お互いに影響を与えずとも存在できる環境が必要なのだろう。それでも何も問題ない関係が最低限必要なのだろう。あまりにも相手に干渉し過ぎて、相手を自分の思い通りにしようとして、これに対して期待通りにならない場合、相手の全人格を全否定して、状況によっては集団で個人攻撃するために、その個人が耐えられなくなって様々なトラブルが生じる。

この頃の社会は赤の他人との付き合い方が下手なようである。

 見知らぬ赤の他人に会ったらまずは不審者として退けてしまう。小さい頃からそんな教育を受けている。多くの凶悪な犯罪や詐欺や殺人事件が大々的に詳細に報道されるごとに、社会の不信感は怪物みたいに増大してゆく。現実社会はそれほど危険に満ちていないが、あたかも身の回りは危険ばかりかのような錯覚に陥っているのではないだろうか。用心することに反論はしないが、新しい出会いを求めるためには少々の危険は覚悟しなければならないし、出会った危険に対しては自分で適切に対処できる処世術を身に着けていなければならない。

外国人を排斥する風潮が広がっている。

 日本人からすると、得体のしれない赤の他人に見えるし、確かに人種も宗教も慣習も文化も違うために、理解できない行動が目につくかもしれないが、それだけで外国人の評価を決めつけて排斥することは許されない。最低限、こんな人達もいるんだ、仕様がないなぁ、くらいの寛容の心でまずはお互いに存在できるところから始めないといけないと思う。それさえも許さない心情が、外国人排斥に向かっている。知識人や評論家や有名人の方々がお互いに理解し合えば解決すると言う助言は、この後の目指すべき方向である。

よく考えてみると、日本人にも外国人と同じような人がいる。

 ただ、日本人の場合は何とか我慢できるが、外国人だと我慢できないと言うのは筋が通らない。日本人同士の赤の他人との付き合い方も考え直さなければならないと思う。自治会やPTAやNPOやNGOやボランティア団体に対する一般市民の関わり合い方はあまり積極的だとは思われない。赤の他人に対して献身的に貢献しようとする姿勢も一部の人を除いては見られないし、積極的に行動している人は美談としてメディアに取り上げられている。本来であれば一般市民が各人毎に関係すべき活動なのである。くれぐれも勘違いしないようにしてもらいたい。

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