オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

人工知能と著作権

2016年05月23日 | Weblog
著作権とは

「自らの思想・感情を創作的に表現した著作物を排他的に支配する財産的な権利」とある。広辞苑によれば「著作物を排他的・独占的に利用できる権利」とあり、著作物とは「著作者が著作したもの」である。人工知能による著作が可能になり、著作するのは人間だけではなく、コンピュータも著作者になりうるので法律を見直す必要があるそうである。

私の中ではコンピュータはあくまでも道具である。

 そうであれば道具を使って著作した「人」がいるはずである。その人が著作者であり、著作権を持ち、著作物に対する責任も持つべきである。問題なのは、責任逃れのいい加減な著作物が氾濫し、それらをすべてコンピュータ社会、ネット社会のせいにして管理不能で混乱と混沌の社会が現出することである。そのような無責任な著作者を取り締まる法律を作るべきである。そして、著作者(リソース)の明確でない情報は価値が「ゼロ」であることを再認識する必要がある。そうすれば得体の知れない情報に惑わされ振り回されることもなくなる。

リソースの不明確な情報に振り回される方にも問題がある。

 世の中はそのような垂れ流し情報が巷に氾濫している。数時間後には消えてゆくと思われる価値のない情報で溢れている。冷静になって今流布している情報が将来的に重要なのかを考えてみるといい。些末な事実であっても確かに大きな価値を持つ情報はある。しかし、それは緻密な分析と判断による何らかの将来に向かっての教訓と決心であって、その些末な事実そのものではない。常に「だからどうした?」と自問自答して行けば、ほとんどの情報はそのフィルターにかかって捨て去ることができ、訳のわからない不安と期待感に振り回されることはない。

昔、人工知能(AI)をあるコンピュータシステムに取り入れるかどうか検討したことがある。

 結果は却下だった。当時はファジーが全盛で、人間の考え方に近づけて人間と親和性のあるシステムを作り上げようという風潮が高く世界を挙げて研究されていた。コンピュータがあまりにも機械的で人間の認知機能や判断機能の思考回路の分野には不得意だったのである。却下された理由は、コンピュータをファジーにしてゆくと曲がりなりにも結論は出るが、果たしてその結論が正しいのか、なぜその結論になったのかを検証しなければならなくなる。結局はファジーな部分を細部まで計算しなおすこととなる。これでは最初からファジーでない方がいい。

最初の開発段階でのファジーシステムは利用価値がある。

 曲がりなりにもシステムが動いてくれ、様々な検証が可能になる。しかし、完成段階ではキッチリとシステム全体を細部まで管理できるようにしなければならない。コンピュータがあやふやで間違った結論を出しては意味がないし、たとえ間違っても何が原因で間違ったのかを明確にできないと使い物にならない。そのようなことの検証やシミュレーションに使うのがコンピュータであって、コンピュータの出した結論をそのまま何も考えずに信用するのは愚の骨頂である。人間が間違っていると思ったらたとえコンピュータの出した結論でも間違いなのである。そういう意味であくまで道具に過ぎない。

コンピュータを動かすプログラム群をアプリケーションプログラムと言う。

 アプリケーション(appllication)とは、本来数学用語で「任意に与えられた独立変数に対応する関数の値を決定する過程」のことである。変数が膨大になり、関数が複雑に絡み合った処理をするアプリケーションプログラムも結局はある変数に対する関数の値を決定する機能に過ぎない。変数を任意の数値に変えればどのような値でも出力することができるし、関数を変えれば同じ数値を入力しても違った値が出力される。英語のapplication は本来「申請」の意味である。申請書を窓口に提出し、当該機関で様々な処理がされ結果が提示される。申請書の書き方次第で結果が左右され、同じ申請書でも機関の処理方法が変われば結果は同じではない。コンピュータの意義が良くわかる考え方である。

事故が起きると皆さんコンピュータのせいにする。

 確かにコンピュータは言い訳もしないし文句も言わないのでそれで済んでしまうが、本当の事故の原因はやはり人間にある。入力した情報が間違っているのか、処理手順が間違っているのか、判断基準に問題があるのか、機械の故障か、操作ミスか、プログラムミスか、原因は何か知れないが、いずれもその原因は人間の側にある。コンピュータは言われたとおりに動作しているだけである。人間の管理が悪ければ故障もするし、間違った情報や指示を入力すれば間違った答えが出たり作動不良になる。責任逃れをせず、人間は謙虚に自分のミスを認め反省すべきである。そうすれば具体的で貴重な教訓事項と対策が出てくる。

人工知能を使って著作をしたならば、

 著作をさせた人(人間)が著作者となり、著作物に対する責任を取り、著作権を保有するのである。良くても悪くてもである。かえって悪いことの責任こそ取ってもらわなければならない。そういう意味で、単なる財産上の著作権ばかりではなく、世の中に害を及ぼすような著作物をしっかりと管理でき監視できる法律を作ってもらいたいものである。世の中に出回る情報に自浄作用が働くような情報化社会の仕組みを作ってもらいたい。その自浄作用を働かせるのは我々一人一人なのである。我々一人一人が自分で情報のリソースを確認でき著作者を問い質し良否を判断できるような環境を作り出してもらいたいものである。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 多数派と少数派 | トップ | 参議院選挙と都知事選挙がや... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事