オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

罰金の平等

2020年08月27日 | Weblog

善いことをしても悪いことをしてもその価値は平等である。

 そう考えると、万人に平等のように思える。しかし、悪いことをしたことに対して罰金を科す場合、同じ罪に対し同じ罰金額ではなんか変である。罰金額が金持ちにとっては大したことなくて、貧乏人には過大な負担である。金持ちは多少の罪を犯しても何ともないという世界が現出する。金で罪を買うこともできる。なんか変である。それよりも罰金さえ払えば何でもありの世界が現出する。そんなことが許されるのだろうか。

罪を犯した本人にとって同等の犠牲を科すことが必要な気がする。

 これは自由平等の精神に反することではない。同じ罪を犯して罰金に差があるのはおかしいという議論はちょっと考え直す必要がある。よく話題に上がるのが容疑者に対する保釈金である。保釈金そのものは逃亡を防ぐため本人の財力に応じた金額が提示される。金持ちであれば支払い能力を下回る金額であれば喜んで保釈金を放棄して自由を獲得する。日産のカルロスゴーンさんが卑近な例である。

中東の石油王の道楽息子が高性能のスポーツカーで高速道路を突っ走る。

 制限速度を無視した考えられないほどのサーキット並みの超々高速である。違反で捕まっても罰金さえ払えばいいという安易な考えである。時にはとんでもない事故も起こしている。それでも罰金や損害賠償を払う能力があれば許されている。現地では「キチガイ」と称されているが、どういう訳か「仕方ない」で済まされている。警察もある程度容認してしまっているようである。困ったもんだと思えばそうだが、ここにも「罪の平等」と「罰金の平等」の乖離がある。

何が平等なんだろうと改めて考えてしまう。

 やはり、平等を金勘定してしまうところに間違いがあるのだろうし、金勘定で済ませてしまうことに問題がありそうである。平等は金勘定に関係なく存在する。どんな人であろうと人間である以上平等の権利を有する。どんなに金を積まれても平等の権利を侵害することはできない。何だかその部分が忘れ去られている気がする。反対に言うと与えられた平等の権利を安易に金で売り渡してはいけないのである。

個人にとって罪の意識はみんな同じであるし罰も同じなはずである。

 その認識を金換算すると、その金額そのものには不平等が生じる。それは仕方ないことかも知れない。金額が不平等だと言う考えそのものがおかしいのであろう。「金額」はそのまま「責任」と言ってもいい。金額ではなくて責任の重い選ばれた人は一般市民よりもより大きな責任を負わなければならない。これもまた重要なことである。政治家が果たしてそのような認識をもって政治を運営しているのだろうか?

罪を金額に換算することが間違いかも知れない。

 でも、罪を金額に換算すると客観的な罪の重さが明確になるし、その金額の差は責任の重さの差でもある。しかしながら、罪に対する罰金制度は責任の重さを考慮されていない。そしてまた、責任の重さがそのまま罪の重さに連動していない。よって、責任が重いにもかかわらず罰金に換算されないという現象もある。ちょっと考え直す必要もあるかもしれない。同じ罪でも不平等な罰金刑がある、もしくは与えられた責任によってはもっと多大な罰金刑も成立するという世界もあり得るかも知れない。


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