「いじめ」について何度も書いているが、
テレビや新聞を見ていると、いつも何かおかしいと言う気がしてならない。端的に言うと、きれいごとだけで済まそうという人達による勘違いのような気がする。言い方は悪いかもしれないが、「糞尿は汚くて臭いので出すのは止めましょう」と言っている事と同じような印象を与える。人間は糞尿をしないと死んでしまう。汚くて臭いかもしれないが、糞尿は人間が生きるために欠かす事ができないし、糞尿が出来る事を毎日感謝しなければならない。
だからと言って、あちこちで勝手に糞尿をされたらたまらない。
大人の人間社会にはしっかりとした「糞尿の仕方」がある。ところが、幼児は最初は「糞尿の仕方」を知らない。だから糞尿は垂れ流しであるが、徐々に教える事によって「糞尿の仕方」を覚えてゆく。これを最初から「糞尿は汚くて臭いからするな」とは言えない。まずは汚くても臭くても、垂れ流しでも糞尿をするところから始まるし、自然のままに糞尿が出来る事から始めなければならないと思う。
オエライ先生がいじめについて新聞に記述している。
「いじめは人間として恥ずかしい行為」「いじめはカッコ悪い」「いじめは犯罪」などと語っている。それをこのまま「糞尿をする事は人間として恥ずかしい行為」「糞尿をする事はカッコ悪い」「糞尿をする事は犯罪」と言われたらどうだろう。糞尿が出来なくなる。「いじめ」は形がないから言えるかもしれないが、「糞尿」は形があるからガマンできないし、恥ずかしくてもカッコ悪くてもたとえ犯罪であってもやらないわけには行かない。
「いじめ」については何回も述べたが、
お互いに競争する人間としての避けることの出来ない生来の行為である。競争する事は悪い事ではない。その競争の醜い部分として「いじめ」があるが、「いじめ」をなくすと競争そのものがなくなる可能性がある。人間は善い事も悪い事も含めて人間であり、悪い事を消滅したら人間は成り立たない。善い事も悪い事も含めてどのように統制を取って調和を図るかが重要であって、悪い事を根絶する事が人間を育てる事にはつながらない。悪い事も十分理解した上で何が善い事かを理解できるし、悪い事は善いことを学ぶ通過点に過ぎない。結果として悪い部分が是正されればいいのである。
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