私の職場では当然の如く分煙がなされている。
別に吸わない人が嫌煙権を強烈に主張したわけでもなく上層部から強制されたわけではない。喫煙者が何となく非喫煙者の迷惑そうな雰囲気を察して自ら室外に喫煙所を設けて室内は禁煙となった。社会状況も関係しているかも知れないが、今のところ円滑かつ円満に分煙がなされている。
私はもうタバコを止めて30年近くになるが、
若かりし頃はヘビースモーカーで、朝出勤時に一箱目の封を切り、昼に二箱目の封を切り、夕方家に帰って三箱目の封を切るという生活が続いていたので、喫煙者の気持ちも解るし嫌煙権を主張する資格もないと思っていたが、分煙して気がつくことはタバコに対する迷惑感が明らかに増大することである。
周囲でいつもタバコを吸われていると、
それが定常状態となって、あまり気にならないが、分煙が常態化すると、たまたま隣でタバコを吸われると非常に気になってイヤでしょうがない。喫煙を許可されている場所ではイヤでも我慢せざるを得ないが、灰皿もない禁煙の場所で傍若無人に吸っているのを見ると嫌悪感が沸き上がってくる。当然、歩行中の喫煙は言語道断である。
私がタバコを辞めるきっかけになったのは、
風邪をこじらせて10日間くらい寝込んだとき、喉をやられていたので、ヒリヒリしてタバコを吸える状態でなく、気がついたら10日間禁煙ができていた。「これは、もしや止められるのでは?」ということで始まった。それから何度も繰り返し禁煙の挑戦が続き、最終的に止めたのは結婚を境にして子供ができてからである。「結婚をする前とした後で自分に変化がないのは意味がない」ということで禁煙を決意した。それから1、2年くらいは吸ったり止めたりが続いていたが、子供が産まれてからキッパリと止めることができた。
私の禁煙のやり方は、
まず「周囲に禁煙の宣言をすること」、次に「タバコ、ライター、灰皿などはいっさい持たないこと」であった。それでもニコチン中毒には勝てず、周囲の人から「もらいタバコ」をしてずいぶん迷惑をかけたのをなつかしく思い出す。禁煙がだいぶ進むと、人がタバコを吸っているのを見た時自分も吸いたくなるので、タールで真っ黒になった肺を想像したり、吸い殻を片づけるときの強烈な悪臭を思い浮かべたりしてタバコに対する嫌悪感を呼び起こして吸いたい衝動を抑えていた。この頃では自ら吸いたい衝動が全くなくなったためか、周囲で吸っていても嫌悪感は覚えなくなったが、分煙になってみると、この嫌悪感が再び甦ってきたようである。
良いものも悪いものも一緒くたになっている時は、
良し悪しの区別が明確にならないが、良いものと悪いものを整理区分して分離すると良し悪しの区別がはっきりする。良いものはさらによく見え、悪いものはいっそう悪く見えるようになる。良し悪しの基準も客観的かつ具体的に決めることができるようになる。物事を善悪がはっきりしない状態のままで放置しておくことは善悪の区別が明確でないために、悪も善とみなされ、善も悪とみなされる。悪意の善と善意の悪が渾然一体となり混乱が生じることになる。結果は同じでも悪意の悪と善意の悪または悪意の善と善意の善とは同じではない。これを見極めるには、あらゆる局面からの観察と継続的な監視が必要である。そして、常に冷静な判断により善悪を区別する努力をしなければならない。
反対に、はっきり区別できないものを強引に区別して、
なおかつ差別しようという考えはおかしい。例えば、学校教育における成績評価である。確かに、学校の成績は試験の結果であり「事実」ではあるが、これで全人格を判断するものではない。成績の良し悪しで全人格を区別するのは間違っている。人格は各人毎にあるのでありグループ分けして区別できるはずがない。成績は数字で表現できるが、これは人格を評価したものではない。単に教育成果を確認しただけのものである。必要な善悪の判断からは難しいと逃げてしまい、必要のない人格の評価は安易に成績の数字で済ませようとするのは理解に苦しむ。
我が職場での分煙にあたり、
町中を散策していてふっとこのようなことを考えた。善悪、良否、適不適などは、確かに明確に区分できない部分がある。これを無理矢理区分しようとするとおかしなことになる。よく反対派が体制に向かって「イエスかノウかはっきりしろ」と叫んでいるが、これも無理なことである。通常は積極案(イエス)消極案(ノウ)そして折衷案(中間)の3案があるのが普通である。細かく分割するともっと区分できる。そして、現実に採用されるのは大方は折衷案である。ただし、思考過程においては考え方をよく整理し明確な区分を見出さなければならないし、区分毎の特性を明確にする努力をしなければならない。これを有耶無耶のままに放置していたのではいつまで経っても改善は望めない。反対派の「イエスかノウかはっきりしろ」というのは、この有耶無耶な態度に対するじれったさを象徴した発言かも知れない。
政策を担当する人やこれを監視する我々一般市民は、
喩えは悪いが「タバコの分煙」のごとく、まずは善悪、良否、適不適を視点を持って明確に整理区分して考える努力をしてみたらどうであろう。そうすれば、良いものはさらに良く、悪いものはいっそう悪く見えるようになるのではないか。そして、良いものはさらに良くしようと努力するし、悪いものは改善してゆこうと考えるようになる。政策担当者がこのような形で改善案を提供してくれれば当然一般市民にも解りやすくなるし、国政にも参加しやすくなり、話し合いの場も増えてくることになるであろう。
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