先日2週間ほど親父御袋の老夫婦と生活を共にしたが、
二人の生活を観察してみると、特異な言動がある。二人の要求を聞くために周囲が声を掛けると、まずは最初に頑強に全否定する。「しなくていい」「する必要がない」「やっても無駄」「面倒臭いだけ」と言う意味の対応であるが、言葉はもっと強烈で激しい否定の仕方である。最初は頭に来て、せっかくの誠意を最初から否定する事に大いなる不満を持っていたが、これが毎回の事なので様子を伺っていたら、あることに気付いた。
二人は周囲に過大に遠慮して謙遜しているのである。
老人になると意外と自尊心が強くなる。「他人の世話にならない」「自分のことは自分でやる」「周囲に迷惑をかけない」「同情されたくない」等であろうか。反対に現実は他人の世話になり、自分では出来なくなり、周囲に迷惑をかけ、同情されることばかりである。そんな毎日が繰り返されるとこのような強烈な全否定の言動が多くなってしまう。周囲に迷惑をかけたくないと言う心が増幅された結果の言動なのである。
そんなことが解ってきて、
最後の方は全否定されても腹を立てずに、全否定されてもとりあえずは自分の出来ることをやってあげて、受け入れるかどうかは二人に委ねるし、受け入れられなくて無駄になっても何もなかったように後始末をして引き下がるのである。実際はほとんどのことが受け入れられて、最後は感謝の言葉が得られた。最初の全否定に腹を立てて何もしなかったら、それこそ何も始まらないし、何も生み出されない。老人の思いやりの言葉だと思わなければならない。
この謙遜は老夫婦間でもやっている。
しかし、老夫婦には謙遜の言葉だとは考えていないし、反対にお互いが諦めの境地に近づきつつある。「やっても無駄」「遣り甲斐がない」「喜んでもらえない」という雰囲気が強くなって、マイナス思考で生活は悪い方に傾くばかりであるし、将来の見通しは悪くなるばかりである。相手の要求を聞くのは相手への思いやりであり、相手が拒否すればこれを無視して先に進むことはできない。
例えば食事についてである。
放って置けば二人はご飯と即席味噌汁と漬物とお茶で済ましてしまう。「何か作ろうか?」と言うと、「何も要らん!」と言う。しかし、こんな食事では身体を壊す事は目に見えている。お袋は料理ができるが、親父が食べないと言えば作る気力も萎えてしまう。気にしないで何か2、3品簡単なものを作って出しておくと、箸を伸ばして食べてくれる。本当は食べれるのである。食べなければそのまま片付ければいい。食べれる間は健康に過ごす事ができるのである。
御袋に忠告してきた。
親父が要らないというなら、御袋が食べたいものを二人分作って食卓に出しておけばいい。親父も食べたければ食べるし、食べなければ片付ければいい。勿体ないなんて考えていたら作るべきものも作れなくなってしまうし、食べる機会を失ってしまう。このぐらいの無駄は許されるだろうし、残り物は次に自分で食べてもいい。売り言葉に買い言葉で平行線のまま何もしないのでは、いつまで経っても前へ進むことはない。
老人になると生き方が消極的になって、
ちょっとしたきっかけで後ろ向きの否定的になる。そのちょっとしたきっかけさえ取り除いてやれば、前向きに行動しだす。脳力開発トレーニングが流行っているが、最初に老人に奨めたときは小学生レベルの問題でも「できない」と言う回答で誰も手を出さなかったが、良く観察してみると、目の悪い老人には文字が小さ過ぎて苦労している。テスト用紙を拡大コピーして老人にも見やすいように改良したら徐々にやり始めるようになったという話を聞いた。結局はこんなところからボタンの掛け違いが生じるようである。
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