オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

自然死

2021年06月24日 | Weblog
自然死について考えてみる。

 近代医学の発展で自然死が混乱している。何が自然死か曖昧になっている。そして、いろいろな形の自然死が存在する。極端なことを言えば、事故死も病死も突然死も自殺も自然死の種類の一つかもしれない。人間は自然の摂理のままに死んでゆくのである。それを避けることはできないし、万人に死は訪れる。それが安らかな死かどうかは死ぬ本人にしかわからないし、周囲のものはその状況を見て判断するしかない。

死ぬ本人にとっては突然死が一番いいかもしれない。

 苦しむ時間が短くて、苦痛を感じないうちに死ぬことができる。確かに予期できない死は存命中の本人にとっては思い残すこともあるだろうが、死んでしまったらそんなものは吹っ飛んでしまい、新たな世界が開けるんだろう。長期間苦痛に苦しむ人を前にしては周囲の人は耐え難いものがある。この苦痛を取り除くのが最優先であろう。ところが、その状態で意思表示できればいいが、それができない場合は本人の苦痛を読み取ることはできない。

治療は患者を回復させるために行う。

 回復の見込みがない場合は、治療行為は単なる延命となる。延命して回復の可能性があれば当然延命治療を行うが、それがなければ、治療行為そのものが患者本人の苦痛となる。患者が意思表示できればその意思に従うが、それができない場合は周囲のものがそれを判断することになる。通常の場合、残された家族である。家族の判断に任されるが、この責任を重く感じてしまう。

陪審員裁判で陪審員になったと仮定して、

 死刑の判決を言い渡したとして、一人の陪審員が死刑と結論を出したからと言って、全責任がその陪審員にのしかかるわけではない。他の陪審員もいるし、当然専門家の裁判官もいる。自分なりにその考え方と理由を明確にして自分の結論に責任を持ち、自分の意見として表明すれば何も問題ないし、後ろめたい思いや後悔する必要もない。私はそう思うが、人によっては抱えきれない重責を感じてしまう人もいるようだ。

自然死についても同じような気がする。

 医師がいて看護師がいて、患者本人がいて、その家族がいる。その人たちが知恵を絞って最適最上の答えを出すのである。たとえ医師と言えども自分の権限だけで患者の命を左右することはできない。患者本人が一番望むものを可能な限り追求するのである。患者の意思表示ができなければそれを慮るしかない。それしかない。そこに治療が大変だから介護が大変だから出費がかさむからというような理由を持ち込むとなんかおかしくなる。

延命治療してもしなくても自然死は自然死である。

 延命治療した自然死もあるし、延命治療をしない自然死もある。どれを選択するかの判断は、医師、看護師、本人、家族の自由であり、各人で相談して決めることである。医師は医療の専門家として、看護師は看護の専門家として、家族は患者本人の親族として判断することになる。そして、患者本人にとって最適最上のものを追求するのである。ただそれだけだと思っている。

「ピンピンコロリ」という言葉がある。

 簡単に言うが、とっても難しいことである。死ぬ直前までピンピンと健康体でなければならない。人間は死ぬ時に病気を持っていればその病気と闘いながら死んでゆく。病気の原因となる部分は苦痛を感じ、体全体はその病気に対応して全力で治癒しようとするため負担がかかり、これまた症状が悪化する。完全な健康体のままで眠るように死んでゆくのが最上級の死である。自分もこれを目指すつもりだが、難しいことである。気楽に挑戦したい。

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