昔の文書には「~ざるべからず」という表現が諸所に出てくる。
最初は違和感を持って二重否定なので「~すべし」に読み替えていたが、何かちょっと真意が伝わらない気がするのである。「~すべし」と言うと、そのものズバリを表現するが、「~ざるべからず」の場合は、「当然すべきことをしないのはいけない」と表現しているのである。真理そのものを行うのでなく、真理以外のことを行わないように心がけなさいと諭しているのである。「~ざるべからず」は、不完全な人達に対し完全を目指しなさいと述べているように感じる。完全な人(聖人)であれば、何をなすべきか(真理)を理解しているだろうが、不完全な人(凡人)は何をなすべきか(真理)をなかなか理解できないものである。それでも自分で真理か真理でないかを判断して真理でないと思ったことはやってはいけないと繰り返し述べている気がする。
数学的に理論的に考えると二重否定は元に戻ってしまうが、文章表現においてはちょっと違うようである。
集合Aの否定が集合Bだとすると、「~すべし」は「何人もAでありなさい」と表現しているが「~ざるべからず」は「Aでない人(B)はBであってはならない」と表現している。対象とする集合が違うのである。Aが正しい集団だとすると、BはAを除いたその他大勢の正しくない集団である。そしてAであることに努める人と、Bでないように努める人がいる。まずは、自分がAの集団に位置するのかBの集団に位置するのかを明確に自分で判断する必要がある。そして「~ざるべからず」は、Bの集団にいる人はBの集団にいることをやめなさいと諭しているのである。正しいことをしなさいと言うのでなく正しくないことはやめなさいと言っているのである。正しくないことをやめると自然に正しいことだけが残ることになる。そうしなさいと言うのが「~ざるべからず」ではないかと思う。
正しいことを理解していることと実践することは別のものである。
「~すべし」は正しい知識を教える言葉であるが、「~ざるべからず」は自分の位置を明確にして間違いを正して行く(実践する)ことを教える言葉である。「確かに自分が正しくないと判断したらそのままにしてはいけない、正しいと思うやり方を実行しなさい」と教えている気がする。正しいか正しくないかを判断するのは「自分」であり、その判断が正しいかどうかはやってみなければわからない。どこかに完璧な判断基準があるわけではない。「~すべし」の教育は、頭の中での完璧な理想としての考え方を教えるが、理想はわかっても現実に移せないのが実情であり、理想ばかりが高くなると現実離れして正しいか正しくないかの判断も自分ではつかなくなる。そして、理想は理想として現実は理想と反対のことに甘んじなければならない、もしくは理想と現実を切り離していい加減な行動を繰り返すことになる。
売春はいけない、ギャンブルはいけない、と言うことは理解している。
しかし、現実世界には売春もギャンブルも正々堂々と存在する。理想はいけないが現実は完全に排除することはできない。だからといって売春やギャンブルが正しい訳ではない。正しいか正しくないかは現実を見て個人が判断するのである。そして正しくないと判断したらやらないことである。その時に、みんながやっているからとか、現実に売春やギャンブルが行われているからと言う理由は成り立たない。他人の判断結果や環境条件は自己の判断の前提条件であり自己の判断そのものではない。自分に自信を持つことである。そして判断が間違っていたら正しいと思う新たな道を歩むのである。この心がけがなければ膨大な迷路の中に入り込み当てもなくさまようこととなる。少なくとも入り口が間違っていれば元に戻って別の入り口を試す最低限の心がけは必要であろう(聖人であれば道を誤ることはないだろうが)。
売春やギャンブルが正しいと思ったら正々堂々とやればいい。
正しい「売春」正しい「ギャンブル」を追求すればいい。違法だからダメなのではなく、正しくないから違法としているのであり、、正しいやり方を追求すれば違法でもなくなり、周囲に迷惑をかけることもなく、みんなが幸福になり、かえって感謝されるかもしれないし、法律だって改正すればいい。正しいと思って実践するならそのくらいの気概を持って臨みたい。ただし、現実の売春やギャンブルは悪意に満ち満ちているし一般市民から見ると特別な領域であり、避けた方が無難である。よってこのような対象には二重否定が使えない。「売春やギャンブルはすべからず」となる。いずれも一般市民を対象としていることに変わりはないし、「売春やギャンブルは悪い」と決めつけているわけでもない。
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