日本では賄賂は悪事の象徴のような考えを持っている。
しかし、賄賂とは、ウィキペディアによれば、「主権者の代理として公権力を執行する為政者や官吏が、権力執行の裁量に情実をさしはさんでもらうことを期待する他者から、法や道徳に反する形で受ける財やサービスのこと。」とある。あくまでも期待するものであり、強制力を持つものではない。賄賂をもらっても、公権力を執行する為政者や官吏が、権力執行の裁量に情実をさしはさまなければ問題ないことになる。問題ないと言うことは、権力執行に疑義がないことである。
賄賂を受け取ったかどうかが問題なのでなく、公権力の行使に問題があったかどうかである。
ところが、日本国の場合、公権力の行使に際して、科学的でも、理論的でも、歴史的でも、哲学的でも、文化的でも、政治的でも、倫理的でもいいが、国民を納得できる説明や理由付けを聞いたことがない。これが問題なのである。これさえしっかりしていれば、誰が賄賂を受け取ろうと国民にとっては何も問題ない。ここが曖昧で不明瞭なために、賄賂だけで決定しているという疑惑が湧くし、実際賄賂の多寡によって決定されてしまっているのだろう。困ったものである。
公権力の行使に当たって、真の実力のある為政者や官吏は真の解答を導き出すことができる。
そんな為政者や官吏を国民は支援し応援する。その一部が賄賂であって何も問題ない。そして、賄賂があってもなくても結論に影響しない。結論に影響しない範囲での裁量は許される範囲であり、権限の範囲で権力執行の裁量に実情をさしはさんでも、十分に国民を納得できる説明が可能であり、実情をさしはさむのはその程度なのである。全く結論を変えてしまったのでは、どんなに実力者であろうと説明責任は果たせず、反対に嘘つきとなり信用を失うだろう。
みんなで好き勝手に賄賂を渡せばいいのである。
賄賂の程度がみんな同じであれば、結論に何も影響がない。特定の者の賄賂が特出していれば、その者はそれだけの経営努力をしていることになる。その努力は認められるだろうが、法や道徳に反して結論が変わることは期待できないはずであるし、そんな結果を出した為政者や官吏は責任を取らされて更迭されるだろう。この最後の結論をちゃんと評価して責任者(権限を持つ者)を追求でき説明を求める態勢ができていれば、賄賂なんてあまり意味がなくなる。この態勢が不十分なために賄賂が幅を利かすことになる。
企業努力をする者と全く企業努力をしない者に差があるのは当然である。
これは賄賂の多寡でもある。特定の者が賄賂が特出していれば、優先順位くらいは裁量が認められるだろう。結論に影響しなければ優先順位が裁量されても問題ない。そして、優先順位を獲得しなかった者は、企業努力が足りなかったと諦めるしかない。別に企業努力は賄賂だけではない。契約獲得のためあらゆる努力をしているのである。それが悪いとは言えないし、当然の企業活動であろう。そのような競争がより良い契約へと発展してゆく。この競争がない限り発展・向上はおぼつかない。
海外では公然と賄賂が横行している。
賄賂の競争でもある。そして、どうしても契約を獲得したい企業はそれなりの特別の賄賂を提供する。その他の企業はそれだけの賄賂を提供することができない、またはしないことを決定しているし、それほど当該契約に執着していない。そして、たとえ結果として当該契約が取れなくても企業努力が足りなかったと納得するし、特別の賄賂を提供した企業も最終的に当該契約が取れなくても、権力の執行結果に納得できれば文句を言うこともないし、文句も言えない。そんな感じである。実におおらかで、開放的なのである。日本はあまりにも密室の中で閉鎖的なのかもしれない。
訳の解らない密室で権力執行の決定がなされるのが問題なのである。
誰が決定したのかも、その決定に誰が責任を持つかも、その決定の意味と決定に至る経緯、因って来る所以、根拠・理由と合理性・的確性・適法性など何も説明されないし、説明できないのが問題なのである。雰囲気で決まるから、誰かの天の声で決まってしまう。その天の声に対して賄賂が幅を利かすことになる。賄賂が悪いと言う前に、賄賂が結論に影響を与えないような健全な政治を目指すのが当然のど真ん中の考えである。ちんけな賄賂を受け取っている小物の為政者や官吏をつるし上げていないで、そんな小物に政治が左右されている現実を憂慮すべきである。
しかし、賄賂とは、ウィキペディアによれば、「主権者の代理として公権力を執行する為政者や官吏が、権力執行の裁量に情実をさしはさんでもらうことを期待する他者から、法や道徳に反する形で受ける財やサービスのこと。」とある。あくまでも期待するものであり、強制力を持つものではない。賄賂をもらっても、公権力を執行する為政者や官吏が、権力執行の裁量に情実をさしはさまなければ問題ないことになる。問題ないと言うことは、権力執行に疑義がないことである。
賄賂を受け取ったかどうかが問題なのでなく、公権力の行使に問題があったかどうかである。
ところが、日本国の場合、公権力の行使に際して、科学的でも、理論的でも、歴史的でも、哲学的でも、文化的でも、政治的でも、倫理的でもいいが、国民を納得できる説明や理由付けを聞いたことがない。これが問題なのである。これさえしっかりしていれば、誰が賄賂を受け取ろうと国民にとっては何も問題ない。ここが曖昧で不明瞭なために、賄賂だけで決定しているという疑惑が湧くし、実際賄賂の多寡によって決定されてしまっているのだろう。困ったものである。
公権力の行使に当たって、真の実力のある為政者や官吏は真の解答を導き出すことができる。
そんな為政者や官吏を国民は支援し応援する。その一部が賄賂であって何も問題ない。そして、賄賂があってもなくても結論に影響しない。結論に影響しない範囲での裁量は許される範囲であり、権限の範囲で権力執行の裁量に実情をさしはさんでも、十分に国民を納得できる説明が可能であり、実情をさしはさむのはその程度なのである。全く結論を変えてしまったのでは、どんなに実力者であろうと説明責任は果たせず、反対に嘘つきとなり信用を失うだろう。
みんなで好き勝手に賄賂を渡せばいいのである。
賄賂の程度がみんな同じであれば、結論に何も影響がない。特定の者の賄賂が特出していれば、その者はそれだけの経営努力をしていることになる。その努力は認められるだろうが、法や道徳に反して結論が変わることは期待できないはずであるし、そんな結果を出した為政者や官吏は責任を取らされて更迭されるだろう。この最後の結論をちゃんと評価して責任者(権限を持つ者)を追求でき説明を求める態勢ができていれば、賄賂なんてあまり意味がなくなる。この態勢が不十分なために賄賂が幅を利かすことになる。
企業努力をする者と全く企業努力をしない者に差があるのは当然である。
これは賄賂の多寡でもある。特定の者が賄賂が特出していれば、優先順位くらいは裁量が認められるだろう。結論に影響しなければ優先順位が裁量されても問題ない。そして、優先順位を獲得しなかった者は、企業努力が足りなかったと諦めるしかない。別に企業努力は賄賂だけではない。契約獲得のためあらゆる努力をしているのである。それが悪いとは言えないし、当然の企業活動であろう。そのような競争がより良い契約へと発展してゆく。この競争がない限り発展・向上はおぼつかない。
海外では公然と賄賂が横行している。
賄賂の競争でもある。そして、どうしても契約を獲得したい企業はそれなりの特別の賄賂を提供する。その他の企業はそれだけの賄賂を提供することができない、またはしないことを決定しているし、それほど当該契約に執着していない。そして、たとえ結果として当該契約が取れなくても企業努力が足りなかったと納得するし、特別の賄賂を提供した企業も最終的に当該契約が取れなくても、権力の執行結果に納得できれば文句を言うこともないし、文句も言えない。そんな感じである。実におおらかで、開放的なのである。日本はあまりにも密室の中で閉鎖的なのかもしれない。
訳の解らない密室で権力執行の決定がなされるのが問題なのである。
誰が決定したのかも、その決定に誰が責任を持つかも、その決定の意味と決定に至る経緯、因って来る所以、根拠・理由と合理性・的確性・適法性など何も説明されないし、説明できないのが問題なのである。雰囲気で決まるから、誰かの天の声で決まってしまう。その天の声に対して賄賂が幅を利かすことになる。賄賂が悪いと言う前に、賄賂が結論に影響を与えないような健全な政治を目指すのが当然のど真ん中の考えである。ちんけな賄賂を受け取っている小物の為政者や官吏をつるし上げていないで、そんな小物に政治が左右されている現実を憂慮すべきである。