5月31日は世界禁煙デーで、
6月6日まで日本では禁煙週間である。禁煙は英語では「smoke-free」である。日本人は自由に喫煙できるのが「smoke-free」だと思って、とんだ間違いを犯すことになる。「free」とは、何もない、拘束されていないことで、他にも「tax-free:無税」「barrier-free:障害なし」「vehicle-free:車なし」などがある。
本来「free」とは、何にも拘束されないことである。
何にも拘束されないということは、何にもないことでもある。何にもなければすべて自分でやらなければならない。他人の迷惑顧みずが「free」ではない。他人に依頼すれば当然拘束される。拘束されたくなければ全部自分でやらなければならないし、全部自分でやることを誰も妨げる権利はない。「free:自由」とはそんなことではないかと思う。
日本人は「free:自由」を勘違いしている。
他人に迷惑をかけても何とも思わずに奔放に行動することが自由だと思っているし、個人がそんな権利をもっているのが自由主義社会であると思っている。他人に干渉されない権利を主張するなら、自分も他人に干渉しない義務が生じる。自分が他人に干渉し影響を及ぼすなら、そこにはお互いになんらかの拘束が求められるし、約束もしくは契約が生じる。
奔放な行動をしている人は、
自分から他人への一方通行で、他人との関係は無視している。周囲の人に迷惑をかけている行動は真の「free:自由」ではない。自由を謳歌したければ他人に迷惑をかけずすべて自分でやらなければならない。そうすれば真の自由を享受できる。そして、自分の好きなようにやればいい。周囲の人は何も言わないし、言われる筋合いもない。これこそ本当の何もない自由である。
「free:自由」には何もない。
自分一人とその空間があるだけである。空間さえも他人の領分を犯すことはできないかもしれない。誰もいない空間に一人ポツンと存在している状態が「free:自由」である。そんな存在を認めてくれる権利も存在している。何人も個人の自由を束縛する権限はない。個人の自由を束縛するのは個人の発意によるしかない。個人の発意として自己主張する人は、自ら他人に拘束されることを要求している。
自己主張だけして、他人に拘束されることを拒絶するのは、
考え方として許されない。独りよがりな考え方で、しかも他人を無視している。また、他人の自己主張を受け入れる姿勢がないと自分の自己主張が受け入れられるはずがない。当然の報いである。自由奔放な考え方をしている人は、結局は他人との約束や契約を無視し続け、著しく信頼を損ねている人達でもある。そんな人達は世間から無視される運命にある。
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