

死刑を求刑する検察側とこれに反対する弁護側の言い分が対比して新聞に出ている。
冷静に考えると弁護側が加害者の少年を弁護するため事実をねじ曲げているか客観的な見方をしていないように見える。裁判とは検察側も弁護側も真実を追究するものでなければならない。起訴する側と弁護する側がお互いに真実を追究し、どこの部分で一致を見て結論を出すかだと思う。真実に反する主張は最初からおかしいと思う。
弁護するためならどんな主張をしてもいいと言うのはおかしい。
馬鹿になって、ただひたすらに弁護する姿は一見すばらしい献身的行為に見えるが、冷静に考えるとやはり馬鹿に見える。数々の偶然が重なって二人の命を奪ったとはどう考えても辻褄が合わないし、自分の行為を理解しないで殺人を犯す18歳の人間に更生の可能性は期待できないと思う。また、反省すれば許されるというのも納得できない。どう考えても「無罪」にはならないし、罪のどの部分を認めるか認めないかが焦点であって少年に罪がないというのは詭弁に過ぎない。
少年の罪をつぶさに分析して明らかにし、
その後に、18歳で犯したということを考える必要がある。18歳であるから犯した罪そのものが変わるということはない。はっきり言うと幼児であっても犯した罪は同じである。そこを有耶無耶にするから、その罪につながる将来が歪んでくる。罪の償い方は変わるかもしれないが、罪そのものは変わることはない。そこをしっかりと指摘して猛省をさせることが重要だと思う。
検察側と弁護側に別れて裁判で審議するのは、
真実を追求するための仕組みだと思う。有罪にしたい人と無罪にしたい人の論争の場が裁判ではないし、ましてや売名行為のための場でもない。最初から有罪にしようとか無罪にしようとかの意図をもって真実を歪曲することは許されない。ただでさえ真実を確定することは困難を極めるのが通例であり、極端な言い方をすると真実は最後まで解らない。いかに真実に最も近いところで結論を出すかが問われている。
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