「僕の名前は、兄がつけてくれたんです」
そう言った小さな子供は、それだけが持てるべき誇りのすべてであるかのように、
この自分に挑んできた。
だからこそ、手加減なしで相対することが礼儀だと思った。
まだ学校という社会も知らない小さな頭脳に、数学者たちの至高である研究機関で議題されるような難問を、
これでもかと繰り出してやった。
結果。
この数日をかけて、「数の学問」という手段で築かれた信頼関係は、あっさり崩壊した。
潤んだ大きな目がにっくき敵に最大限の恨みをこめるようになったのを見てようやく。
(しまった、やりすぎた)
と、自分の手違いに気付いたミカは、その兄に救いを求めた。
* * *
「え?別にいいだろ、それは」
「あほかあ!良くねえからお前がなんとかしろ、って話をしてんだよ!」
とても人に救いを求めているとは思えないほどの高圧的態度にも慣れたもので、ヒロは一向に気にしない。
ミカの態度にも、…その話の内容にも。
「書物にない数学に触れられて、良い機会じゃん?」
そう、この事態を真剣に理解しようとしてくれないヒロは、厠として建てられた建築物の手直しとやらをやっている。
相変わらず小さい子供たちがまとわりついて遊びの延長のようにもなっているが、何かしらの図面を広げていて本格的だ。
それにかかりきりで、ミカの訴えを真剣に取り合ってくれないことも腹が立つ一因。
「その段階をとっくに過ぎた、って言ってるだろ!」
そうだ、最初はまだ良かった。
「仲良くやってたじゃん」
「初めはな」
ヒロに、勉強を見てやってくれ、といわれた、件の弟とともに過ごした数日はと言えば。
最初、古い本を持ってくるので、一緒に問題を解いてやってあれこれ指導していれば、妙に尊敬された。
翌日からは、どうやら数学が一番得意分野らしいと解ったので、本の内容を一通り終えてしまってからは、
それらの応用を示してやった。
それにもきちんとついてくるので、さらに翌日からは高度な数式をいくつか教えてやり、専門的な分野に入り込んだ。
が。
一気に反発された。
「反発?」
「解らない、やりたくない、とかじゃなくて」
ひい兄だって学校に行けば貴方よりずっとずっと賢いです。
ヒロの弟、セイランは突然何の脈絡もなく、そう言って黙り込んだ。
それから夕飯、就寝で勉強はお開きになったが、翌朝になって、朝食後の今でもミカには近づいてこない。
ちょうどその反発を見ていたウイが、
「お兄ちゃんのこと大好きすぎて、ミカちゃんのすごさを認められないんだよ」
と、説明してくれた。
セイランの中では、ヒロの低学力、ミカの高学力、という図を嫌でも認識させられて、我慢できないのだろう、という。
「そもそも、初めにお前が、手に負えねえとかいうから」
兄の威厳が地に落ちたぞ、いいのか。
そう言えば、何の問題もない、と言わんばかりにヒロが笑う。
「そんなの、これから何度も経験していかないといけないことだよ」
弟にとって自慢の兄で、あこがれで、絶対的な崇拝の対象であるヒロは、それを仕方がないという。
「いつまでも理想ばっかりの姿を追ってて、俺の真の姿を知らない、っていうのもなあ」
村の外に出てしまえば無理がある、と続ける。
世界を股にかけ、膨大な情報と物資とを村にもたらし、幼少の英雄説が知られている兄の姿を、
セイランの勝手な虚構であるという風にヒロは語るけれど。
「またお決まりのの謙遜か?」
そんなに自分の価値を下に置かなくてもいいと思うが、と呆れかえってミカが縁台に腰掛けると、
その框を補強する作業を続けながら、ヒロが苦笑する。
「そういうんでもないけどさ、理想と現実が違うなんてことは、ごろごろしてるわけじゃん」
そんなことにいちいちへこたれて、逆切れしてたって、きりがない。
むしろそれをちゃんと自身で受け止めていけるようならなければ、強く生きることもできない。
「俺が、セイに出ていけ、っていうのはそういう世界だからさ」
俺の威厳が地に落ちるくらい、セイの為になるならどうってことはないよ。
そんなヒロの話を聞いていると、向こうにその当人の姿が見えた。
石版を抱えてうろうろしていたが、こちらに気づいて、小走りに近づいてくる。
「よ、セイ、どうした?」
今までの話がなかったように、くったくなくヒロが話しかければ、頬を紅潮させてセイが口を開く。
「解けた!解けたと思う、から、えっと、…見てください」
開口一番、興奮したようにヒロに報告して、それからミカを振り返って石版を構える。
えっと、とそこに書かれた文字から解を導こうとするように逡巡するセイランの様子に、ヒロが気づく。
「そっか、もう石版じゃおいつかないんだな」
その言葉の意味が、初め、ミカもセイランも解らなかったが。
ちょっと待ってろ、といったヒロが厠の中に入り、これ使え、と折りたたんだ大きな紙を持ってきた。
そうだ。数式は複雑になり、二つの石版を駆使しながら解をやりとりしていた。
もう、そこに書き込めないほどの情報量を脳で処理しながらの勉強であることが、ヒロには解ったらしい。
「それ、もういらない紙だから。ほら、裏面使えるだろ」
と言い、家の広いとこでやりな、と言う。
そのヒロの好意を受けてセイランは大きくうなずき、ミカに、家の中にいきます、と声をかける。
それに否応もなく、先に行くセイランに続いてミカもその場を離れると、しっかりな~、とヒロの声。
はたして、セイランへの激励か、ミカへの後援か。
* * *
午前中は大概人が出払って家の中には誰もいない。
その静かな空間に、数式の解を説明するセイランの声が延々と続き、それに聞き入る。
時々詰まりながらも、ここ数日でミカの指摘したことはすべて吸収し、理解しているのが解る。
それでも。
「どうですか?」
と、一気に何十列もある数式を説明しきって高揚したセイランには言いにくいことだったが。
「違うな」
そう、一言で終わらせる。
それを聞いて、高揚していたものは一瞬で冷え、そうですか、とセイランは俯いた。
酷く落胆しているようだが、ミカは逆に興起したと言ってもいい。
セイランが説明の為に書きつけた紙を幾度も見返し、そこに至った思考をなぞってみて解る。
「ここまでやれるとは思わなかった」
知らずそう口にすれば、セイランが顔を上げる。
「でも間違っているんでしょう?」
「そうだな」
「じゃあ、何の意味もないじゃないですか」
そう言って、再び俯く姿があまりにも小さい事に改めて気づく。
ここ数日をともに過ごした時間、数式以外でセイランの口から出てくることはヒロの事ばかりだった。
ヒロが自分にどれだけの恵みを与えてくれるか、どんな存在か、その功績、絆、思い出、羨望。
セイランの成長すべてにヒロが関わってあり、実際、ヒロが旅先から送ってくるという書物にも、
ヒロの明確な意思が見て取れた。
何がセイランにとって必要で、何が不要か、ちゃんとヒロ自身が内容を把握し、選別しているのだと解った。
そういう兄弟に、今、外側から関わっている自分の存在。
それらを見て、判断してくれといったヒロの頼みが、ようやく現実味を帯びる。
「この数式には、すでに最新の公式が出ている」
「え?」
「だが、お前にはそれを教えなかった」
敢えて、という言葉の意味を感じとって、セイランが恨めしそうに下からミカをにらんでくる。
「意地悪して楽しいですか」
その物言いは子供そのもので、普段、子供と関わる機会のないミカにはひどく新鮮だ。
頭脳で理知的に渡り合えるかと思えば、感情むきだしで対人面での未発達さを際立たせる。
その均衡の危うさが、ヒロには外に出すべきか否かの迷いとしてあるのだろう。
それでも。
いや、それだからこそ。
「世界に出るべきだ」
それが、ミカの判断だった。
* * *
何を言われたのか解らなくても当然だな、と、目の前の子どもの呆気にとられた顔を見て、反省する。
小さい子にはやさしく、と初日にウイが言っていた事をミカなりに守っていたつもりだが。
優しく、ではなく、易しく、とウイは言っていたのか。
子供には大人並みの頭脳がある。だが、大人並みの経験がない。
理系としてどんな高度な数式を解けても、それを超えるような文系の部分が追いつかない。
知恵とは経験を積んでこそ蓄えられていくものであるからこそ、セイランにはそれが必要に思える。
「ヒロに、お前が学院に入学してやっていけるかどうか、見てやってくれと頼まれたんだ」
自分もハッキリいって理系脳だ。事の始まりから順を追って説明する。
「だから来た」
と言えば、セイランも、ひい兄が?、と姿勢をただし、ミカと向き合う。
話を聞いてくれる気になったようだ、と判断し、その先を話して聞かせる。
「ヒロは、学力は問題ないと言っていた。俺もそう思う」
入学試験に通るかどうかなら、ミカの目という判断材料は不要だっただろう。
ヒロの頼みを意識していたかどうかは明確ではないが、この高度な問題に踏み込んだ真意は。
「お前なら、公式さえ理解すればそれなりに解に近付けただろうと思うが」
と、セイランの書きつけた用紙を指ししめす。
「公式を教えなかったのは、学力を見るためじゃない」
ミカの言葉を、真摯に聞くセイランの。
「思考する力があるかどうかを知るためだ」
難問に取り組む姿勢、その過程、そして結果。
一度、反発してそれでもミカの元に戻ってきた。動機はどうあれ、やり遂げようとした事は評価できる。
そして、自力で考えぬいた式を誇りに思っていい。
「数式がある。そして公式を説明する。その通りに解いて、解けたとして、それはただの作業だ」
「作業?」
「決められた手順どおりに答えを出す、という、作業だな」
それをさせず、セイランの自由に答えを求めさせた。
ヒロの教えと、書物から得た知識だけを武器に、高度な難問に挑んだ。
「答えは間違っているが、考え方としては悪くない」
いや。
「俺の想定していた水準を、はるかに超えていて驚かされた」
考える、ということ。
身の回りにあるすべて、取り巻く現象、起こりうる事態、それらに相対するとき、人は何故なのかと考える。
考えて、行動する。
物事には、原因と結果だけにとどまらず、そこに予測と、判断、そして選択という人としての営みが必要だ。
そのために、考える力がある。
考えることさえできれば、見知らぬ世界へ飛び込んだとしても、万事立ち向かえるだろう。
意味がない、とセイランはいったが、それも大きな間違いだ。
意味はあった。とても重要な意味が。
学力の高さではない、思考力の高さを持ち合わせることがどの社会においても生き抜く条件だ。
そう説明してやったが、セイランは今一つ解っていないようなので単純に言いそえる。
「だから、解は違っているが、試練には合格だ」
それでもまだミカの言いたいことをつかみきれなくて困惑している小さい子に。
「お前は、この俺の出した試験に勝った、ってことだ」
そう言ってやれば、かたくなにこわばっていたセイランの頬が緩んだ。
兄の事が大好きな、ただの子供の笑顔だった。
* * *
セイランとミカの二人きりの授業は、三日ほど。
その間、兄の事ばかり話すので、何がそんなに好きなんだ、と思わず言ってしまったことがある。
ミカとしては純粋に、ただの疑問だっただけで
(何しろほぼ出稼ぎで家にいない、やりとりは手紙か物資、という希薄そうな兄弟関係であるわけで)
特にセイランの兄貴像をけなしたつもりはなかったが。
その時。
「僕の名前は、兄がつけてくれたんです」
と返ってきて、え?それが?と、ますますミカは怪訝になったものだ。
その反応を不満に思ったのか、セイランは字を書く手を止めて、話をはじめた。
「僕が生まれた時、ひい兄、行方不明になってて」
「ああ、知ってる」
「それに、僕もすごく病気がちで育たないんじゃないかって言われてたらしくて」
そう話し出すセイランは、確かに細身でよわよわしい印象を受ける。
(だが村全体が裕福に肥えているというわけでもないので、今のセイランが標準なのかそれ以下なのか、
ミカには判断しかねるが)
「だから、僕の名前、最初は、ベニヒってつけられてたって…」
「ベニヒ?」
「母親の名前を一字もらうとその生命力をもらえる、っていう俗信があって」
「へえ」
「あと、ひい兄がいなくなって皆悲しんだから、ひい兄の名前も一字もらって、…ベニヒ」
そうしてベニヒと名付けられていた赤ん坊の頃の事は覚えていないから、よく知らないけれど。
その後に、行方不明だったヒロが無事戻ってきた。
ヒロは、不在だった間に生まれた初めての弟の名前を聞いて、「可哀想だ」と言った。
「俺の身代わりみたいなのも、母ちゃんの生命力奪うような言掛りも、可哀想だ」
大きくなったら絶対傷つく、そういって、両親にかけあい、村長にかけあって、新しい名前をつけてくれた。
「夜明けの綺麗な色だよ、って、希望の色だよ、って、ひい兄が言ってくれたから」
だからこの名前が大事だし、ひい兄のことが大好きなのだ、という話をしたのが昨日か、一昨日か。
ミカは特にそのことについて、興味をひかれ感心はしたものの、それがセイランにとって
どういう感情の発露だったかという事までは気に止めてはいなかった。
だが、ここ数日の間、セイランの身の回りで起こったことといえば。
大好きな兄が戻ってきたのが嬉しくて、ただ褒めてもらいたくて、一人努力した成果を披露した。
それだけだったのに、兄に、「手に負えない」といわれるほど高度な問題を自力で解いてしまったと解った。
そのうえ、そんな高度な問題を歯牙にもかけず一瞬で解く人が現れた。
しかも、その人はさらに高度な問題を延々と出してはダメ出ししまくる始末。
まだ小さな子供には、受け止めきれないほどの衝撃が立て続けに起こっていたことを、
その口で説明されて、ようやく、ミカは理解した。
敢えて、公式を教えず難問に挑ませたことを「意地悪」と非難され、それの意図を説明し、
ようやくわだかまりが無くなって、もう一度同じ問題を公式を用いて説明してやった後に。
少し落ち着いたセイランが、白状してくれたのだ。
自分が兄を超えてしまったこと、それでも越えられないミカをどう思えばいいのかということ。
「だから貴方のこと、嫌いじゃないけど好きじゃないです」
と言われても、もっともだな、としか言えない。
そういえば、セイランが驚いたように身を乗り出す。
「怒らないんですか」
「まあ、当然だろう」
この流れで好かれても意味不明だしな、と思う。
これが、万人にもれなく好かれたい!と恥も外聞もなく豪語するヒロなら阿鼻叫喚なんだろうが
ミカ自身は、むしろセイランが意思を明確にしてくれた事の方がありがたい。
しかし。
「でもひい兄は、貴方のこと、大好きみたいです」
何でですかね?と真顔で問われ、これは自分がセイランにした質問の仕返しだな、と悩み。
「なんでだろうな」
と、返しておく。
良く考えれば、なんだか意味もなく懐いてくるな、と出会ったばかりの事は思っていたものだ。
まあそれが、万人にもれなく好かれたい、というアレだろうし。
…今は。今は、どうだろう。まさか、万人の中の一人として数えられるわけじゃない、と、…思うが。
「いいです、後でひい兄に聞きます」
「うん、そうだな」
それが早い、と思っていると、さらにセイランが突っ込んでくる。
「貴方はひい兄のことどう思っているんですか」
ああ、子供というものは。
抜き身の剣だな。
と、天を仰ぐように、宙を見据える。
自分も果たしてこうだったか?いや、自分の行動も、周りの大人にはこう映っていただろうか?
その愚かしさと、賢しさが、大人に何を考えさせるものか知りもしない。
今、セイランの姿に、過去の自分が重なる。
↓一話で行けると思ったけどやっぱり長引いた!!!の見通しの甘さで二話にわけるよ、ぽちっと♪