城下町の中心部から東の方へと馬車は走る。
(馬車は、苦手)
これから向かう場所の格式を思えば、苦手だなんだと言って避けられるものでもないことは十分わかっているが。
通常なら徒歩で苦もなくたどり着けるはずの場所へも、名を伏せ、姿を隠して移動するという事そのものに馴染めない。
そして、もう一つ。4人乗りの馬車、その密室で二人きりになるという状況が。
「そんなに外の景色が面白いか」
いきなり声をかけられて、ミオは、自分の心臓が跳ねあがったような気がした。
「はっ、はいっ!歩いてるのと違って、街の見え方が全然違ってて、とても面白いですねっ」
「…ふうん」
そう言ったっきり、会話は途切れた。
ふたたび馬車内に無言の重圧が押し寄せてくる。
馬車に乗り込んだ初っ端からその圧力に耐えかね、馬車の窓にかじりつくように外を見続けることでやり過ごしていたが。
ミオは、そっと、対角に座る同乗者の様子を盗み見た。
手には何かの書類をいくつか比べるように広げているミカが、何気なく窓の外を見ている。
普段、仲間と行動を共にする時と違い、高級な衣服を身に着けているミカは別人のようで少々近寄りがたい。
(それも、馴染めない)
と思っていると、不意に飽きたように窓から視線を外したミカと目があってしまった。
ミカは滅多には無駄口をたたかない。ウイやヒロとは違って、こんな時「何か行動を起こさなければ!」という自責に捕らわれるのも、そのせいだと解っている。前に「俺にそういう行動を求めるな」とミカが言っていた事も、「俺もお前に求めない」と言ってもらえたことも、解っているのだが。
「お、面白い、ですよね」
解っていることと、それが出来ることは違うのだと思う。
つい余計な口をきいてしまい、「いや、特に」とミカに無感動に返されては、ですよねー、と場を盛り上げることもなく再び窓に張り付いて外に意識を向けるしかない。
馬車から見る町の様子が新鮮なのは本当だが、ミオの真意はそこにないのだから仕方がない。ただ会話のない空間で「そりゃ会話がなくても仕方ないよね」とはた目から見えるような状況に身を置くことで時間をやり過ごしているだけなのだ。
自分の意味のない行動に呆れられただろうか、と後悔していると、「俺は慣れてる」と、短い一言が付け加えられた。
もう一度ミカに視線を戻せば、彼はもう手元の書類に視線を戻していた。
(俺は慣れてる。ええと、慣れてる、から。馬車に慣れてるから窓から外を見ても特に面白いことはない、って事)
それを言いたかったミカの心境は?と考えていると。
見られていることに気づいたミカが、顔を上げた。
「なんだよ?」
「え?」
「お前、外見てるの面白いんだろ。そんなガッツリ張り付くくらい」
邪魔して悪かったな、と言ったミカが、好きなだけ外を見ろとでも言うように景色を指さす。
「はい」
「うん」
それだけ。たったそれだけの会話で、ミカは気を遣ってくれたのか、と思う。
そうなんですかと聞くのもおかしい。
おかしいけれど、そんな風にミカという人間を捉えられるようになった。
きっと、この馬車からの景色に慣れるくらいミカの家を行き来すれば、雅なふるまいをするミカにも馴染んでしまうだろう。
行きの馬車で、そんなことを軽く考えていた自分を恥じる。
(馴染むとか、馴染むとか、そんなの無理、無茶、無謀!)
到着した別邸は、ちょっとしたお屋敷だ。
納屋どころか、ミオの家より広い。下手すれば前庭にミオの実家がさっくり建ってしまいそうだ。
ミカが「ちょっと別邸に顔を出してくるけど、お前も来るか」と、何気なく訊ねてきたそれを真に受けた。
以前招かれた侯爵家の屋敷ではなく城下町にある自分専用の小さな家だ、と説明されて、なんとなく城下町にある家々を想像していたのだが規模が違った。
使用人も家の管理をしているのが一人二人…、という話ではなかったか。
到着早々、執事のアドルーとメイド二人に深々と頭を下げられ、挨拶もしどろもどろに、普通に友人の家に遊びに行った時のような挨拶をしてしまった。
以前侯爵家の屋敷に行ったときに教わったはずの社交的振る舞い、あれはドレスと共に脱ぎ捨ててどこに放り出してしまったのやら。
(やっぱり私は一人で立派にできない子でした!!)
あまり家に帰りたがらない様子のミカが、珍しく家に帰る…それも友人を伴って、という稀にない行動をとったものだから尻込みしていたらせっかくのミカの気が削がれてしまうやも、というそれだけで勢いついてきたのだが良かったのか悪かったのか…
やっぱりウイやヒロがいる時にすれば良かった、そう考えた時。
「おい、大丈夫か」
と、ミカに声をかけられて飛び上がりそうになる。
執事と短いやりとりをしていたミカがいつの間にか、ロビーで待っていたミオの傍に戻っていた。
「うわっ、はいっ、大丈夫、正気です!」
「いや待て、正気を失うほどかよ」
そんなに馬車辛かったか?前よりは短かっただろ、と見当違いの心配をされて、なんと答えようかと戸惑う。
「い、いえ本当に大丈夫ですので」
そう返していると、ミカの後から様子をうかがっていた執事のアドル―が穏やかに訪ねてくる。
「お嬢様は、どこか具合でも」
いえ私はお嬢様ではゴザイマセンし具合も悪くゴザイマセンですし何か失礼をしてしまいそうで倒れそうなだけです、とは言えず知らず後退ったのをミカに支えられた。
「あ」
「大丈夫だ、乗り慣れない馬車から降りて少し強張ってるだけだ」
な?と言われてただただ頷く。
では、と言いかける執事にミカが続ける。
「初めての対人には異様に緊張するからあまり構わないでやってくれ」
「さようでございましたか」
では私共は奥で控えておりましょう、と礼を取る執事に軽く「ウン」とうなずいたミカが、こっちだ、とミオを招く。
あのミカが庇ってくれたのは非常に珍しく、それは嬉しいことであるのだが。
子供でもないのに人見知りで、一人前の振る舞いをすることも出来ない人間、として見られるのは恥ずかしすぎた。
(今までそんな事思ったこともなかったのに)
ロビーから続く廊下へ進むミカに続いてその場を離れることに、何もできずただ執事に頭を下げていた。
返す彼のお辞儀は優雅な威厳があった。
「そんなに緊張しなくていいぞ。侯爵家の屋敷と違って、街なかにあるんだ。街の住人とも普段交流がある。特別お前の振る舞いをオカシイなんて思わないから普通にしてろ」
そういう場所だから連れてきたんだ、とミオに話しかけるミカが部屋の番号と手元の用紙を見比べながら廊下を進む。
「は、はあ」
それでも磨かれた壁や天井は荘厳な装飾がほどこされ、床には柔らかな毛並みの絨毯が敷かれている。明らかに別世界だ。
(あ、そっかー、宿からずっと歩いてここまで来てたら靴の泥で絨毯が汚れちゃうんだ)
近距離の馬車の意味を知る。そして今日の為におろした靴と訪問着で来て良かった、と何気なく思う。
「ここだな」
廊下の一番奥の部屋に入るミカに続いて、中に入る。
その円形の部屋には、重厚な本棚が一面に備え付けられ天窓から入る柔らかな光に磨かれた木の艶が存在感を放っていた。
中央に背丈ほどの地球儀と月球儀、その周りにソファーを置いて、この部屋は完成されていた。
気圧されたたずむミオを中に入れてミカが扉を閉める。
「ここに産業の資料が集められている、衣服関係は、…この棚だな」
手にした用紙を見て、このあたりだ、と本棚を示すミカについて、ミオもその本棚の前へ近寄った。
「好きに読めばいい。気になる本があるなら貸してやるから」
「え、ええー、でも」
本棚に並べられた本は、どれも高級そうだ。
気軽にミオがお小遣いで買える本とはまるで違うのは、手に取るまでもなく解る。
「なんだ?」
「お、恐れ多いというか」
「はあ?」
「き、綺麗すぎて」
ミカが本棚を見て。
「汚しちゃいそうで」
そう言ったミオを見る。
訪問着の一式として手袋はしているけれど、手袋をしたまま本をめくってはページもよれてしまうだろう。そんな躊躇いを口にしていると、ミカは目の前の棚から無造作に一冊を選んで、引き出した。
金箔が施された本だろうか。きらきらと光り、それに見惚れているとミカが軽く掌を返し、本の中から本を取り出して見せる。それで、金箔が施されているのは、ケースカバーなのだと気づいた。本そのものには、細密な刺繍が見える。それも一瞬。
「本とは、読まれるためにある。書き手は多く読んで欲しくて書くのだろうし、作り手は多く手に取ってもらいたくて飾り立てるんだろう」
ミカがケースを棚にしまい、本を広げ適当にページをめくる。さらりさらりと紙が立てる音さえも、心地よい。
「たとえ一切の汚れもなく傷もつかず宝石のように美しいままであっても誰にも読まれず手にさえも取られず暗い部屋に仕舞い込まれていることのほうが本にとっては不幸だと思うが」
そう言ったミカがその本を広げたままミオに差し出してくる。どんな感情も見せない、有無を言わせぬ気迫。時折ミカが見せるそうした気迫の前にはただただすくみあがるしかない。ミオは訳も分からず圧倒されるまま、差し出された本を両手で受け取った。
思っていたより、重い。
「宝石や美術品と同じに考える必要はない」
そう言われて顔を上げると、ミカが手を伸ばしてページをめくって見せた。
「これが高級だと思うなら、それは正しい。多くの手に読まれることを想定して、それに耐えうる上質な紙が使われる。多くの時間にさらされる事を想定して高級なインクが使われる。装丁や装飾の技術も同じだ。それは上流社会が本という遺産を守るためにとる手段だ。後世に伝えていかなければという意味での投資なんだ」
「後世、に?」
「何十年、何百年と読み続けられても耐えられるように、作られている。すなわち、何百年の後にまで読み継がれて欲しいという願いの象徴がこの装丁であり、この書き手の本意だ」
「本意」
「というのが、教師の教えだ」
と付け加えたミカは、再び本棚に手を伸ばす。
もう先ほどの気圧されるような空気はどこかへと散ったように見えた。
「俺もそう思う。実際町で気まぐれに手に入れる本には粗悪な造りの物も多いが、それが流行ものでなく保護するに値すると思えば持ち帰ったりもするな」
専門家に判断を仰ぎ作り直しを依頼したりな、と言ったミカが、これはそうさせた本だ、と新たな本をミオに差し出す。
持っていた本を手渡しそれを受け取る。
「それはうちの司書が作り直した本だ。お前が買ってきた刺繍の図録、あれも今判断させてる。不要なら戻ってくるから、そうしたらお前にやるよ」
「えっ、そんなっ?…え?」
次から次へと語られる情報量が多すぎて、ミオの頭の中で処理できない。何に驚き、何に戸惑っているのか、自分でもわからなかったが、ミカは気にするな、と言った。
「ヒロにもそうしてる。…まあ、あれだな、書籍の収集を手伝わせている事への報酬みたいなものだな」
「はー…」
しばし頭の中で整理する時間が欲しい。何をどう考えようかとすればめまいのようなものに襲われ。一番新しい情報に我に返った。
「あ、だからミカさんは、私たちに本を買ってきて欲しいって言う…」
言う、それが。
「ああっ!私、絵本とか買ってきちゃって…!!」
唐突に、以前ミカに頼まれた「本を買ってきてくれ」という使命がただ事ではなかったことを実感した。
後世に残す本を探しているというミカの希望には添わない。ただ皆で楽しめたらいいなという思いで選んだ本なのだ。
あれについてはミカはどう思っているのか聞くのも怖いが。
ミカはあっさりと口を開く。
「いや、絵本も侮れない。描かれた宗教的価値観や風習を読み解いていくと思わぬ思想に行きついたりするかもしれない」
「ええー…そ、そう?ですか?」
「と、あの本で気づいたところだ。お前の選別もなかなかない点を突いてくる」
あれ?誉められたかな?と思っていると、そういうわけだから、とミカが本をケースにしまい、本棚にしまった。
「ここにある本が綺麗すぎて汚れていないのはまださほど読まれていない、というだけだ。どうせこれから何百年と読み継がれて廃れていくんだ、今お前が読もうと読まなかろうと一緒だ」
「はあ」
「好きにしろ」
「はあ」
「それに、ここにあるのは俺個人の所有物だ。侯爵家として保存していくべき書物は屋敷の方で別にある。そっちは俺でも気軽に持ち出したりできないからな」
「本を、…ミカさんが個人的に集めるための別邸、って」
「うん」
「候…、侯爵家とは関係なく?」
なぜか、ミカがわざわざ家の財産とは別に本を収集している、という話が気になって意識を集中させる。ミカは何げなく言った事のようだが、ミオの意識にひっかかった。
そのミオの不可解そうな反応に、ミカもしばし黙り込んだ。
自分で自分の話した内容をミオに指摘されて吟味している様子に、ミオもただその先を待つ。
「昔、高貴なるものの責務、という授業があって」
と、話し出したミカは、記憶の中を探る様に、視線を天窓へ向けた。
窓から落ちてくる光に、風に木々の葉を揺らめかせた影が交差する。光と影、今と昔。
「模擬実験として、社会貢献を成せ、という課題が出た」
「はあ」
「俺は、領民に書庫を開放する、という題目で教授に論議を持ち掛けた」
と言ったミカが、ミオに視線を戻す。
「お前も今、ここの本は高価だって言っただろ。ヒロの弟にしたって能力はあるのに本を買う余裕がなくて、学校にも縁がない。そういった層、日々の生活だけでゆとりもない層に向けて書庫の本を貸し出す。学識を得ることで能力のあるものがそれなりの地位を目指すことが出来る。社会全体の良識の底上げにもなる。その為に、各地に書庫を造る」
お前の村にも一軒、ヒロの村にも一軒、と言われてミオはやっとミカの言いたいことを理解した。
読みたい本がある。高価で手が出ない本、裁縫の本、世界の被服の本、それが村にあって、貸してもらう事ができる。父は喜ぶだろう。本を買いに遠くまで出かけなくても村に読みたいだけの本があって、いつでも借りることができるなら。
「すごいっ、それはすごく、素敵ですねっ」
「うん、それを形にするために教授と論議して、ある程度まで煮詰めて、どうしても越せない壁に突き当たった」
「え?」
「犯罪をどう防ぐか、って所だな」
領民に本を貸し出す、それはミオやヒロに貸すのとはわけが違う、とミカが言う。
「本を持ち逃げする、あるいは転売する、そういう犯罪行為にどう対処するかと問われて俺は決定的な答えが出せなかった」
当時のやり取りを思い出しながらの語りは淡々としたものだったが、本棚に背を預けて両腕を組んでいるミカの心境はいかばかりか。
視線は宙に定まっているけれど、ミカは恐らく昔の自分を見ている。それには容易く相槌を打つこともできない。
「あとは管理費や修繕費、人件費、それをどう賄っていくかという点と、継続して運営していく展望でも、性善説に頼り過ぎていて見通しが甘いと言われたんだったかな」
「……」
「結局、論議を詰めることができず方向を転換させられた。学校や教会、専門機関に、本を“寄贈する”というところに決着して、満点をもらったわけだ」
満点をもらった、というのはミカにとって皮肉な結果なのだろう。
昔の授業を語り終えたミカは、自嘲気味に笑って見せた。
「え、えーと…」
何かを言いたくて、でもミオにとってはあまりに厳しい話すぎて、どう反応すればいいかわからなくて口ごもると、そうだな、とミカがミオを見た。
「俺はまだそれを諦めきれなくて、何とかやってやれないか、って企んでいる」
そう言って、もたれかかっていた姿勢を正し、背後の本棚に手をかけた。
「という事だろうな」
「…あ、だから、それで、ここに本を」
「うん、本を集めるばかりで先に進めなかったが…、今はお前らがいるんだったな」
何とかなりそうだ、というミカは、もう過去からすっかり自分を切り離したように見える。
「は、はいっ、何とかしましょう!」
厳しい影がどこかへ消え、いつものミカの雰囲気に戻ったことに安堵して、ミオは咄嗟に同調したが。
「大体、満点をつけるために方向を転換させられたことが納得いかねえ」
と、再び目が据わるミカをみて困窮する。
「は、はあ」
「ダメならダメで、低い点つけりゃーいいだけの話じゃねーかよ」
本来の題目で何点もらえていたかが解らないだけに良策なのか愚策なのかがわかんねーじゃねえかよ、と言うミカが、なあ?!と同意を求めるのにもただ頷いて。
(これはいつものミカさんだ…)
と、嬉しくなる。
どちらのミカちゃんも本当のミカちゃんなんだよ、と、以前ウイは言っていたが。
貴族社会にいるミカと、自分たちの仲間でいる時のミカと。
(こっちのミカさんの方が、安心する)
貴族社会に身を置いているミカの姿は、常に何かを警戒しているかのようで落ち着かない。厳しく余裕がないようにも見えて、心配になるのだ。
それが。
「大体、あの教授も教授で、防犯に関する模範解答を出せなかったから論議がそれ以上進まなかったんじゃねえか」
今ならすげーわかるぜ、と独り言ちているミカに可笑しくなる。
ならその模範解答を出せたら満点ですね、と言おうとして、ミカの為に言葉を選ぶ。
「だったら、私たちが書庫を開放できたら、ミカさんの勝ちですねっ」
思った通り、それはミカの心に響いたようだ。
授業は勝ち負けで測るものではないのだろうけど、単純に勝負で勝つことに闘志を燃やすミカにとっては、勝ち判定で単純明快に過去が覆ることだろう。
「そうだな、勝てばいいんだよ勝てば」
「はいっ」
「じゃあ、まずは防犯学の定義を固める所からか、いや犯罪学が先か」
と、その場から颯爽と歩きだしたミカが、脚を止めてミオを振り返る。
「俺、別の部屋に行くけど、お前どうする?」
そう聞かれて、ミオは自分にできることを考える。
ミカが書庫を開放するために学ぶことは多いのだろう。それは自分には想像もできないほど高い学識が必要な事に違いない。そこには居場所はないと思う。
「わ、私は、えーと、ここで好きにしてます」
せっかくミカが連れてきてくれた場所だ。裁縫の本が好きなら、と連れてきてくれたのだから。
「ここで本を見て、本を借りる人になります」
書庫を開放するというミカと、解放された書庫を利用するミオと。
二つの光景は合わさって一つの景色を作り上げる。どちらが描けてもどちらかが描けないなら、展望とは言えない。
解った、と言ったミカが、ちょっと来い、と手招くので扉の前まで移動すると。
扉の横に掛けられている見取り図を指される。
「今いる部屋がここな、で、俺は2階のここにいる。何かあれば呼びに来いよ」
部屋から出て、ロビー、トイレ、階段、と辿って二階の部屋を指す。執事とメイドはここにいる、とロビーの奥を示されて頷く。
大丈夫、旅の間に地図の見方はしっかりと習った。初めての建物でも、地図を頭に入れて行動できる。
そう言えば、ミカも、そうだな、と頷いた。
「じゃあ、俺の方は用事が済んだら戻ってくる」
はい、と返事をすると、扉を開けたミカに、「閉めるか?」と聞かれて。
「あ、開けておいて下さいっ」
と答えれば、誰も来ないけどな、と笑われた。
(それはちょっとどうかと思う、な)
ミカの言う「誰も来ないように言ってある」は、侯爵家の人たちに通用しないのは学習済み。
だったら扉が開いている方が、気持ち的に楽だ。
そのまま部屋を出ていったミカをちょっと見送ってから、ミオはずっと手に持っていた本をソファーの傍の小机に置いて、帽子と鞄を置いた。手袋を外して、おもむろに部屋を一周する。
(これも旅の間で習ったこと)
初めての場所は、周囲の安全確保と逃走経路の確認、自分以外の存在を把握してから、ようやく自分もその場の一つになる。
全ての本棚を見て回って、「衣服はここだ」とミカが言っていた棚の前に立つ。
(豪華な装丁は、手に取ってもらう為の物)
そっと引き出し、両手で化粧ケースから本を出す。革の手触りはしっとりと馴染んだ。
(高級な素材は、読んでもらう為の物)
ページをめくれば、目に入る文字と初めて空気に触れるかのような紙の重みが、柔らかく感じられる。
緊張していたのも最初だけ、ページをめくる毎にミオはその本質に夢中になっていった。
続きます