先生とヒロが無駄に意気投合してから、放って置かれること三日。
な、ぜ、か、今日は自習になったということで、久しぶりにヒロが隣でおバカ発言を連発し、それにいちいち「くだらねー」と突っ込んでいるうちに、ここ数日の鬱憤は晴れた。
古典文学の短編集を自分が読み、それに対してヒロが疑問を投げかけてきたり、逆に自分の疑問にヒロが妙解釈で応えてきたり…と、やってることは他愛無い。
自主学習、と呼べるほどのものではないから、そのうち会話が脱線し出すのも自然の成り行きで。
「そんで先生が、俺が貴族になるにはいくつか手段があるっつって」
「ああ、あるけどな」
確かに現実的ではないものを排除したとしても、ミカにもいくつか案を出すことはできる。
その中でもヒロが自身のこととして受け取れそうなものは。
「武勇をあげるとか」
「武勇」
「黒騎士騒動、…あれはそこまでの大事じゃなかったが、城内城下で死者が数千規模の被害が出ている事件を解決したとか、城を乗っ取られたとか、そういう国難を救ったことを評価されて領地と称号を頂くことはある」
「ああ、なるほどな。俺だけが、ってことな?」
それならわかる、というヒロに今度はミカが疑問を抱く。
「どういうことだ?」
「いや、俺、家族こみで考えちゃってたからさ。貴族、って家ごとじゃん?それってミカのとこみたいにうちの家族みんなで、みたいなの想像しちゃって」
住んでた荒屋がいきなりお城みたいになるとか、俺の父ちゃん母ちゃんがドレス着て舞踏会行ったりするとか意味わかんなくて、というヒロが思い描いていた貴族像はわからないでもない。
これは実際ミカがヒロの家族と共に過ごした経験であり、それこそ、その感覚はヒロとの付き合いの長さだ。これを先生に説明するのは難しいだろう。
「まあお前が領地と称号を貰えば家族もそこに住まわせられるけど、貴族の称号はお前の代からだな」
「ふーん?俺の子供は必然的に御貴族様、ってこと?」
「それは褒賞による。領地はなく称号だけだと、一代限りってこともある。そこはまたいろいろ複雑だ」
それにも、ふーん、と返事をするだけに終わる。ヒロは大体、こっち方面の野心がないな、と思う。友人のよしみでなんとでもできる、と思っているのは自分だけで、ヒロは特にそれを希望していないのだ。
だから、気が引ける。
今回の上流社会の礼儀作法を学ばせる、という指示も、それを是とする自分と否とする自分のせめぎあいがなかったとは言えない。ヒロが上流社会に馴染めば、…ヒロだけでなくミオやウイも共に、同じ世界に生きてくれれば、自分は躊躇いなく外の世界を捨てて、上流社会一筋に生きられる。自分の生きる世界に彼らがいてくれるとするなら。
それは何よりも甘い誘惑。
だがそれは結局、自分の独り善がりなのだともわかっているからこそ、繋いでいてくれる彼らの手を強引に引き寄せることができない。
(ここの均衡が難しい)
ミカの最近の悩みはこれだ。
誘惑と現実の間で、どこに自分の心を決着させて良いかわからない。
(オシエル先生が、それをヒロに示唆した意図もわからない)
ヒロの野心を試したのか?あるいは、その誘惑に揺れる自分を試したのか。
それをヒロに相談したくとも、「貴族になって欲しい」と思っているそれに感づかれれば、ヒロは否応なく「よし任せろ!」と言う様な気がする。
今回の様に。
(いや)
ヒロは躊躇いなくこちらに来るだろう。そう思っている自分が甘いのか。
自分のためなら躊躇いなくそうしてくれるだろうと思っていることが罪で、現実にヒロに拒絶されることが罰なのだとしたら、そう易々と答えも出せないでいる歯痒さ。
だから煩わしい。だから友人など持つべきではなかった。と、言える自分はもういない。
なら、尋ねるべきなのだ。
目の前にいる、ヒロに。
「先生は、どうしてそんなことを言ったんだと思う?」
「え?どうして、って?俺が阿呆だから?」
「…違う…」
そうじゃなくて、と両手の中で開いたままだった古典の短編集を指す。
心証を学ぶ様に、と言われたそれ。
文学を読むことはできても、そこに書かれた人物の複雑な心理描写や人間関係の背景などを読み解くのが苦手な自分と違って、いわゆる『行間を読む』のが得意なヒロが、ヒロなりに面白おかしく解説してくれていた、それ。
それだけで、ヒロは「ああ、それ」と理解する。
「それはやっぱりー、んんー。…俺とミカが友達だから、先生としては『末長くお友達でいられます様に』って事じゃないかな」
一瞬難問でも投げかけられたかのようなそぶりを見せておいての、その返事。
普段と変わらない呑気な調子でのそれには、面食らう。
「え?友達?!」
貴族になる手段の提示、そこにかける橋として、あまりにも牧歌的。
ミカの知るオシエル先生との大きなずれに思わず驚いたが、その感想にヒロも間髪入れず驚きの声をあげる。
「えっ?何?俺ミカの友達じゃねーの?!」
いや、だからそういう話ではなく。
「いや、友達…、…友達で良いけど…、貴族になる話どこ行った…」
ミカは先生の厳格さが、情に流されない毅然としたものだとわかっている。それこそが先生の美意識で、それがあるから自分は安心して先生に学んでいるのだと思っていたが。
ヒロは、全く違う様に先生を捉えているのだ。
「あー、そこはあんまし重要じゃねーんじゃね?」
という言葉でそれを知る。
「だって重要だったら、先生が言うだろ?貴族になる手段。こうしたら貴族になれますよ、じゃあやってみましょうか、っていうんじゃね?先生なんだし」
「あ、ああ。そうか」
先生なんだし、か。
「だから先生は俺とミカが永久に友達でいられる様に考えろ、って言いたいんだと思ったんだけど」
授業が始まる前に、「俺学校行ったことないから先生とかよくわかんないけど良いかな?」と、ヒロが言っていたことを思い出す。それについての補佐はする、と返事をしたが、ヒロはヒロなりに「先生」を理解しているじゃないか、と思う。
ミカとは違う受け取り方で教えに学び、ヒロはヒロの答えを出す。
「もー今はとにかく、『考えろ』なのな。授業の時だけじゃなくて、休憩中も、ちょっとお茶飲むじゃん?そのカップについて考えろ、それを扱うことを考えろ、茶葉について考えろ、意味を考えろ、感じるな考えろ、って、もう三日間ずーっとそんなん。俺はめっちゃ考えましたよ?そしたらどうしてそう考えたのか考えろ、って、考えろ無限地獄ですよ。考えても考えても終わりがねえんだよー」
と、ソファーの背もたれにへばりつきつつ嘆いて見せてから、ヒョイと顔をあげる。
「っていう授業してた」
そして「ミカは?」と尋ねるのは、三日程の空白を埋めるため。
だから、まず家に戻って祖父と話をしてきた事、ウイたちの様子を見に行ってきた事を話せば、「あ!ウイとミオちゃんの事見に行ってくれたんだ。ありがとな」と感激されて、「爺ちゃん怒ってた?」と心配をされる。
どっちもミカの心情からはかけ離れた(ウイ達の不安を気遣ったわけじゃないし、祖父に会うのは報告だし)細やかな感情優先で反応してくるのがヒロなのだ。
感じるな考えろ、というそれはオシエル先生がヒロに何を求めているのか、自分は考えなければならないのだろう。
ミカの話を聞いた祖父は「何がいけなかったのだと思うかね?」とミカに答えを求めた。
「先生という存在を蔑ろにしてしまったのだと思います」
そう答えたミカに、祖父は頷いた。それがお前の答えか、という様に。
「儂は信頼を蔑ろにしてしまった、と思ったよ」
これは先生に孫を預ける祖父としての言葉だが聞いてくれるかね?と言い、普段と変わらぬ穏やかな調子で語る。
今回のヒロに対する教育は貴族の子らに対するのとはまるで勝手が違うだろうがどうぞよろしく、と先生を頼りにした。それに対して先生は実に十分な検討をしてくれた様に思うがどうか?と聞かれれば、確かにヒロに対する様々な授業内容や教材には一切の妥協は無かった様に思う。
あるとすれば、自分の迷いだ。
ヒロを先生に預けることに対する、わずかな不安。自分たちの将来に関わるこの時期に、この選択で間違いがないかどうかの、躊躇い。
おそらくそれをヒロに見抜かれた。ヒロを動かしたのは、自分だ。
「その不安をまずは先生に打ち明け、理解を求めるべきだったかもしれません」
ミカの懺悔に祖父は、再び深く頷いた。
「そうじゃな。それが、信頼ということやも知れぬ」
祖父はミカとヒロを先生に預けることに全面的な信頼をおいた。それを受けて自分は総てを先生に委ねる事ができず、先生との信頼を築けなかった。そういう事なのだろう。
「それを学ぶのだよ」
と祖父は幼い子に言い聞かせる様に語る。
「儂もまさに今学んでいるところだ。この先、お前を数多の人間に委ねていくことになるだろう。それをどこまで許容できるか、預ける先の人間とどれだけの信頼を築けるか、築いた先にある物事にどう対応していくか、学ばなければ己を正すこともできぬ」
祖父として、ミカの失敗は自分の事の様に捉えていると言い、今は同じ失敗に学び共に成長する事を儂とお前との信頼としよう、と、祖父はミカを送り出してくれたのだ。
失敗から学ぶことは多い。
失敗を許容してくれる人がいるからこそ、人として望まれる方向に成長する事ができる。祖父はそれをミカとヒロに分らせるため、「今一度戻ってくれた先生への感謝を忘れぬ様に」と念を押しただけだ。内心では怒っていたのかも知れないし、失望されたのかも知れなかったが、それを自身の事として捉えることで、決して無駄では無かったと言った。
そんな話をしてやれば、ヒロが感極まった様に「爺ちゃんありがとー」とどことも知れぬ方角に手を合わせて拝む。続いて、逆の方に向いて「先生もありがとー」と拝むのには、自分も一緒に拝んでおいた方が良いかと悩む。祖父はともかく、今同じ館にいるオシエル先生なら、どこかで様子を伺っているかも知れない。
実際それを見られていれば「不敬」と怒られそうだが、大真面目に敬う姿勢で感謝を示して、ヒロは笑う。
「よかったな」
と言われて、それはお前だろ、と言いかけ。
ヒロにこの笑顔が戻って良かったな、と思う心に負け、「うん」と頷く。
先生が、『この友情を末長く続けられる様に』ヒロを導いてくれるのなら、自分はそれにどう応えられるだろう。
ヒロが先生に出された『宿題』、先生がヒロから受け取った『宿題』。
残りの日数で二人が取り組む授業に自分は口を出せない代わりに、彼らが出した答えに真剣に向き合う覚悟を決めろ、ということか。
自分の心がどこにあるのか。
一つの課程を終えたヒロの考えが、どうあるのか。
(オシエル先生は、ヒロを教育することで俺に対する指針を考えている)
今はヒロの授業を受け持ってはいても、先生はミカの専属教師なのだ。
ヒロと、ウイとミオと、永久に友達でいられる様に考えろというそれは追い風か向い風か。
どちらであっても、その風は強く厳しく吹く。
けれど、厳しくとも暖かい。
そう感じるのは、先生が先生であるからであり。
ヒロがそれに気づかせてくれたからでもある。
「授業、楽しいか?」
とつい聞けば、唐突な質問にヒロは一瞬驚いた顔をしたがすぐに笑って見せた。
「大変だけど、楽しい」
そう言って、ここ重要な?と続ける。
「大変だから、楽しい。考えるの大変だし先生厳しいし時々筋肉痛だしめっちゃ食わされるけど、まあ全体的に大変で楽しい」
「そうか」
今度はウイとミオちゃんも一緒だとなお楽しいのでよろしく、と言う。
そうか。そうだな。
もっと早くこれを聞いていれば、良かったのかも知れない。だがもっと早かったら、自分はそれを信じられなかったのかも知れない。
大変なことをしでかしてしまったけれど。今は。
「そうですか。それは大変よろしい」
と、先生の声がして、ヒロと同時に扉の方を振り返る。
先生の隣には、執事のライダスが。
「お茶の準備を致しましたよ。一息つかれては如何ですか」
自習も大変お疲れでしょうし、と先生が言うのには「ああ、えっと」と誤魔化すミカを他所に、ヒロが立ち上がる。
「先生のお誘いとあらば喜んで!いついかなる時と場所でも馳せ参じます!」
おおお、そこまで言うのかこいつ。
感謝と好意、その示し方の作法に悩むミカとしてはヒロのそれが羨ましいやら、慄くやら。
苦笑するライダスと、鼻白む先生。
「…それは興味深いですね。参考までに。いついかなる時と場所とは?」
「そりゃあもう!ドラゴンとの戦闘中でも完璧な正装に早変わりしてキラーパサーを駆ってひとっ飛びで」
「…ルーラの方が早いと思うぞ」
「ルーラでひとっとびです」
「今声をかけたのがその時でなくて良かったですよ」
そう言って先生が姿を消す。
ええーなんでー、と先生の背を追ったヒロが振り返って手招く。
「お庭へ参りましょう」
と言うライダスと共に、ミカも部屋を出る。
外は気持ちのいい風が吹いていた。