晴耕雨読を綴る。

3.11から考え方を変えた。液状化と直下型地震に脅える日々。自然の驚異を感じながらも、共生と調和を求めていく!

古稀を前に自分史を書く。

2008-02-13 20:53:53 | 日記
 第一回

 私が生まれたのは朝鮮府咸鏡南道興南である。当地には日本窒素の大工場があったと聞くが、事実は定かではない。日本の統治下において、いわゆる北朝鮮は鉱工業の生産を主に、南朝鮮は農産物の生産に力点を置いていたようである。

 終戦を迎えたのは興南より北部の北青という田舎町であった。父の不遇の時期であると聞いていた。疎開のようで事実は疎開らしきものではなかったようである。

 昭和20年8月15日正午、母は大事な放送があるからと尋常小学校一年生の私を台所へくるようにいいつけて、ラジオのスイッチを入れた。家にいたのは私と三歳になる弟の三人だけであった。

 父は役所へ、姉二人は学徒動員で出かけていた。兄は志願して予科練に入り、すでに出征していた。緊急放送の前に鳴らすあの緊迫したチャイムの後、いわゆる玉音放送があった。忘れることのできない子供心にも無残な神である天皇陛下のお言葉であった。

 「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非情ノ措置ヲ以ッテ時局ヲ収拾セムト欲シ慈ニ忠良ナル爾臣民ニ告グ・・・・・」放送が終わったとき母は泣いていたが、私は何がどうしたのかさっぱり分からないでいた。その日の昼食はオムライスであった。今でもそのときのケチャップの利いた味わいが忘れられない。

 私、なぜか玉音放送の全文の原稿を持っている。御名御璽まで誤字修正の時間もなく、書き直す間のない原稿そのものである。ここから長く苦しい日本の終戦処理が始まったわけである。

 続く。


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