晴耕雨読を綴る。

3.11から考え方を変えた。液状化と直下型地震に脅える日々。自然の驚異を感じながらも、共生と調和を求めていく!

日本の法制度も見直したほうが良い。

2008-02-24 18:52:06 | 注目の話題
 さすが、先進国アメリカと思った。日本の裁判制度その他最近の判決事例を見ても、証拠主義、確たる証拠、作為、犯行にいたる意志その他が立証されれない限り罪を負わせることができない。しかも、すべての犯罪にに時効がある。

 今朝のニュースを見て、さすがアメリカ、世界の警察としてお願いするに値すると思えた。そもそもロス疑惑事件として大きく報道された事件である。それに、多額の保険金の授受が絡んでいた。27年前の1億7千万円とは今の評価としてどのくらいになるのか?  疑惑だらけの事件であったが、日本の最高裁は無実を認めた。

 日本人を裁く裁判は、日本でという(国民の権利、財産、生命を守るという意味において)発意であると思うが、日本の警察も、議会も、国家機関も何もかも崩壊寸前の様相でしかない。  馬鹿いってんじゃないよ! 漁船は自衛艦に破壊され、民間機は小さくなって航行する事態がそこかしこで起きている。米国軍人の婦女暴行事件など日常茶飯のように聞く。  悲しいかな、一般日本国住民は、選挙でしか自分の意見を反映することができない。高い税金を払い、低い金利に泣き、これから始まる物価高騰に泣くのは我々庶民だけである。

 塩野七生さんが、いみじくも言っておられた。日本の格差は今に始まったことではない。昔からあったことなのだと。ただ、これが固定化されることに不安を抱いているのではないかという意見である。

 私は、そうとは思わない。厳然として格差は広がりつついあり、それがさらに広がると同時に固定化されていく気配を感ずるからである。  もはや、政治には頼ることはできない。政治家に頼る馬鹿なことはやめよう。

 やっぱり官僚社会がいい。優秀な官僚こそ日本を変えうると思うのだが、これが私の意見である。

DDTの洗礼。

2008-02-20 10:50:56 | 日記

 やけに明るく、まばゆいばかりの春の日差しであった。釜山港に無事入港、上陸すると直ちにDDT(とうの昔に使用禁止となった薬剤)の洗礼を受けた。頭から体中に自動噴霧器によって散布された。その夜からしらみとの戦いはなくなった。

 ありがたかった。しらみ、のみとの悪戦苦闘は、今の人には分からないと思う。布団に入り、体が温まってくると活動を開始する。むずむずから始まり、そのうちかゆくて眠れなくなる。しかし、しばらく我慢の末、疲れからか爆睡してしまう。一晩中ややつらの天下である。大事な血液を吸い取られてしまう。にっくきやつらだ。

 手続き上なのか、船舶待ちなのか数日を釜山港で過ごしたように覚えている。何日かして米軍の上陸用舟艇に乗って下関に向かった。船内でのことは何も覚えていない。この数ヶ月、北朝鮮からの脱出計画に明け暮れ、何回かの拿捕と拘留に近い足止めを経験してきた。その後の平和なひと時を味わっていたのだろうと思う。

 父の故郷に向かう。汽車に乗り関門海峡を通過するとき、ここは海底トンネルだと教えてくれた。それ以来ここを通過した記憶は無い。父が父らしく子供たちに向かって指導教育する姿は、以後消えてしまった。何か自信喪失というか、魂が萎えてしまったような感じが受け止められた。戦前戦後の大きな生活変化、多くの日本人成人の夢を粉々に粉砕してしまった事変であった。

 
我が家では、戦前の話をすることをひどく嫌う家族になっていた。脱出計画の初期段階で、父母は今後の生活のこと、戦争終結後の段取りのこと、また敗戦前のような生活に戻れるという思いをこめて善後策を講じていたはずである。母は着物を大切にするというか、非常な愛着を持って買い揃えていたふしがある。その着物類を始め金目のものを選りすぐって、特に信用して使用していた朝鮮人に預けたのだった。その量も半端なものではない。リヤカー一台分と聞いていた。

 しかし、その信用の置けると思った朝鮮人に見事に欺かれてしまった。二度の脱出失敗を受けて、少しでも持ち帰りたい荷物を補充しようとしたが、手のひらを返すような仕打ちを受けてしまった。何一つ取り戻せなかったようだ。おそらく、人生における最大の過ちにより裏切りを受けて、人間不信に陥ったことと思う。父母と同様子供たちも恵まれていた朝鮮での生活またその反面忌まわしいというかいやらしい朝鮮人たちの仕打ちを忘れたいとしていたに違いない。

 いま、北朝鮮人のことは計り知れないが、韓国人から戦後補償(すでに済んでいるがまだ足りないというのだろう)、日本非難、竹島の領有関係その他悪いのはすべて日本人の仕業のような言いがかりをつけられている。悲しいことである。

 かつて、朝鮮半島も日本の領土として、また同じ日本人として同様の扱いをしてきたはずである。鉄道も学校建設も教育も治安も国内以上の予算を組んで培ってきたはずなのだ。そのほかに、現地に渡ってそれらに勤務し、蓄えてきた民間人の財産もすべておいてきているのだ。その人たちへの補償はお涙程度のものである。少なくとも私は何がどうされたのか全く知らない。父母ははした金であるようなことを言っていたが、その通りだったと思う。

 いずれにして、お隣同士。世は21世紀である。韓国の政権も変わるようだ。初めての日本生まれの大統領と聞く。お互い過去は過去として友好関係を築けないものだろうか。お互いが、いいたい放題では関係は少しも良くならない。


国民学校の一年生。

2008-02-17 14:11:30 | 日記
 私は国民学校の一年生になった。愛犬シロが毎日学校のすぐそばまで送り迎えをしてくれていた。秋田犬より一回り小さく、白いふさふさした毛並みの犬だった。紀州犬だったのかもしれない。

 学校は結構大きく、全校生徒、数百人の規模だったように思う。母の自慢は、朝の全校生行進のときに、私が旗手を勤めていたことであった。おそらくは、背丈が一番大きかったからだと思うが、母は成績が一番だと思い続けていたようだ。

 なにしろ軍国主義の真っ盛り、すでに敗戦の色、濃厚となっていった時期だったのかもしれない。剣(旗だったかも)を右手に持ち、壇上にいる教育軍人へ頭中(かしらなか)する姿は、結構勇ましく、かっこよく見えたのだろう。グランドを一周する行進を今でもはっきり覚えている。授業を受けた記憶はないけれども、校門を入ってすぐ近くにある招魂社への拝礼に始まり、行軍まがいの体力づくりに重点が置かれていたような気がする。

 シロがあるとき、私を迎えに出たまま帰ってこなくなった。家族で探し回ったが、何処にもそれらしき痕跡はなかった。人なつこい犬だったので、だまされて連れ去られたのか。二度とその姿を見ることはなかった。悲しかった。さびしかった。学校へ行くのもいやになったくらいである。しかし、それが現実になってしまった。学校どころの話ではなくなってしまった。

 私は、赤玉旅館の前の広場にいた。少し高いところから、朝鮮人の子供も含め同じ年頃の子供たちへトランプ類を始め自分の宝物の類を投げやっていた。もって帰れない腹いせから、いままで大事にしてきたものを惜しげもなく投げていた。母は、日本に帰ればそんなもの以上のものを買ってやるといっていたが、日本に帰ったときには食料も乏しくおもちゃ類も教科書さえない、無い無い尽くしであった。父母は、平価切り下げと預金封鎖に難渋していたのだ。

 二度目の朝鮮脱出失敗の時にはすでにソ連兵が進駐してきていた。自動小銃を水平に構えたまま、りんごなどの食べ物を見せびらかしていた。怖さを知らない吾ら子供たちはソ連兵に向かったダバイ、ダバイといって食べ物をねだっていた。春が近づいた頃、三度目の正直やっと南朝の釜山港に入った。

 次回へ

小休止Ⅱ。

2008-02-16 19:09:58 | 日記
 父が日本のふるさとの地にたどり着いたのは50歳のときである。当時人生50年といわれた時代であるので、すでに自分の人生は終わったと思ったに違いない。

 田舎町の役場からお勤めの誘いがあった。そのとき、これから育ていかなければならない子供たち4人を抱えていた父の答えは「もう定年に達するから」といってありがたいお誘いを断ってしまったのだ。母はこの一件を何度となく非難していた。

 その後、父は92歳まで生きながらえた。実に見事というか60年近くも自分の思うまま、これといった勤めも持たずに永らえたものと母の苦労を思いやるものである。

 父の気持ちも分からないではない。朝鮮府庁に勤め、後に知ったのだが麻の栽培指導のために、かの地へ渡っていったのである。帰国後は、同僚たちと浦安埋め立ての建議書を持って東奔西走、その夢も実らないまま年齢を重ねてしまった無念さがあったのかもしれない。

 人呼んで好々爺、悪く言えばお人よしの爺さんでしかなかった。しかし、確かに農業関係、特に東洋蘭から始め野草類の知識は相当のものであった。私の同級生など農業を専攻した連中も父に手ほどきを受けたといっていたのが思い出される。

 よき時代であった。人間の生き方として何を如何選ぶべきなのか。如何に生きるべきなのか。私もそんな年齢になってしまった。

ちょっとお休み。

2008-02-16 18:12:34 | 日記
 母は、着物に執着心を持っていた。自分がそれなりに人に教えるほどの技術を持っていた関係か、裁縫特に和服の仕立てについて一家言を持ち合わせていた。

 そんな母が、永年付き合っていた現地人夫婦を見込んでリヤカー一台ほどの着物類、その他金目のものを預けたようだ。

 いずれ戻ってくることを予想してなのか、日本はこのままで終わることはないと思ってのことなのか、金額的にも相当の品物を預けたようだ。

 それが早くも無念の諦めを誘うこととなってしまった。二度もの脱出失敗。捕まるたびに減って行く財産というよりは、当面の生活維持費、全く心細い思いをしたことであろう。

 そのような時、預けておいた財産これにすがろうとする気持ちは当然であろう。ところが、嘗ての使用人は、手のひらを返すように母の要求を放置していたようだ。

 彼らは、すでに何処からかの情報を手に入れていて、日本は完全に敗北したことを知っていたのであろう。

 帰国してもこの痛手はいえることなく、朝鮮人の恨み百年といい、決して朝鮮半島へ足を踏み入れることを許さなかった。

脱出劇。

2008-02-15 21:13:43 | 日記
 戦争中、北朝鮮においては空襲警報は鳴っても実際爆撃は行われなかった。防火演習、避難訓練等連日実施され、防空壕への非難も何回となく行われたのだが、実際爆撃されることはなかった。米英ソは終戦後の日本の処理についてヤルタにて会談していたのだ。当然のこと米国は北朝鮮を攻撃できない状態であったのだ。これも後になってわかったこと。

 敗戦を前にして、ソ連兵が進駐してきた。敗戦後の日本国内と全く同様、こちらはソ連兵が自動小銃を身構えて町に進駐してきた。

 こんな姿を見ることになったのも、私ども親子6人と行動をともにした6~70人の日本人が3回目の逃亡準備のため赤玉旅館に滞在していた時期に重なるからである。場所は不明だが、3~4階建ての日本人が経営するかなり大きな旅館であった。徒歩で漁港までいける範囲のところだったはずである。汽車に乗った記憶はない。ひたすら砂浜を歩いての逃亡だった。

 一度目の失敗は、雇い入れた漁船に乗り込む直前に民兵らしき集団に襲われてしまった。漁師からの密告かと疑われたが、後の祭り。手荷物をチェックされて金銀宝石からお金まで略奪されてしまった。一時体育館みたいなところへ収容され、後開放された。
 二度目の失敗は、我が家の長女が一行からはぐれてしまい、大幅に到着が遅れてしまったことによる。逃亡は計画は密にして時間等約束事をを間違えることはできない。これが逃亡する側、それを手伝うものとも絶対守らなければならない大切なことであろう。情けないことだが、身内のことまた他の多くの方に迷惑をかけてしまった。

 今回は3度目である。私は8歳、したに3歳の弟が次女におぶわれていた。父母はそれぞれ思いの詰まったリュックを背負い必死の逃亡であった。過去の失敗を繰り返さないためにも闇夜を狙い、15名程度の小グループに分散しての行動をとった。かすかに漁船が目に入ってきた。波の音も、堤防にはじける波しぶきも目や耳に入ってきた。もうまもなく乗船できる。皆安堵の様子、息ずかいが感じられた。

 続きはまた次回まで。乞うご期待。

怖かった思い出。

2008-02-14 16:23:14 | 生活
 戦前の朝鮮での暮らしぶりは、今現在と比較しても夢のような生活であった。食べ物の話になるが、明太子などは4斗樽でおいてあった。毛がにのシーズンには毎日おやつに食べていた。食べきれないほどたくさんにあった。正月には父が狩猟をやっていた関係で、きじが2~3羽玄関にぶら下げてあった。砂糖なども豊富にあり、私はなぜか練乳が好きで、原液を飲むのが好きであった。

 兄はすでに旧制中学に通っており、スキーをこなしスケートなどはウェッジ類を各種含めて7~8台持っていたようだ。非常に寒いところであって、夕方庭に水をまいておくと翌朝には簡易スケート場となるほどだった。私はまだ5,6歳だったので父が作ってくれた輪回しだとかこおり(物入れの)を持ち出しては芝山を滑っていた。ゴルフボールを壊しては、中に巻いてあるゴム(結構良質のゴムで幅1.5センチほどの薄いゴムがぐるぐる巻いてあった)でいたずら気分を味わっていた。

 秋のりんご狩り、ぶどう狩りは、今でもはっきり覚えているが。結構高い棚を作ってあったように記憶している。まだ子供のせいか本当に高く感じたものである。

 あるとき、朝鮮の子供を泣かしてしまったことがある。いわゆる子供のけんかであるが、その親が見咎めて洗濯棒を振りかざして追いかけてきた。朝鮮の人たちはすりこ木棒のような長い棒で叩いて洗濯する習慣がある。その棒で叩きのめそうという勢いだった。チマチョゴリを着てあの独特の形状をした靴を履いた母親だった。必死で逃げた。怖かった。日本の家庭教育では子供のけんかに親は出てこないのが当たり前となっていたはずだ。それなのになぜ?
 
 ようやくの思いで門の中へ入り、家に駆け上がり母に救いを求めた。さすがに門の中までは追いかけることはしなかったが、日本人街を外れて遊びにいくことを固く注意された記憶がある。二度とそのようなことに巻き込まれることはなかった。

 次回は、敗戦前後の北朝鮮からの脱出について書くつもりである。

古稀を前に自分史を書く。

2008-02-13 20:53:53 | 日記
 第一回

 私が生まれたのは朝鮮府咸鏡南道興南である。当地には日本窒素の大工場があったと聞くが、事実は定かではない。日本の統治下において、いわゆる北朝鮮は鉱工業の生産を主に、南朝鮮は農産物の生産に力点を置いていたようである。

 終戦を迎えたのは興南より北部の北青という田舎町であった。父の不遇の時期であると聞いていた。疎開のようで事実は疎開らしきものではなかったようである。

 昭和20年8月15日正午、母は大事な放送があるからと尋常小学校一年生の私を台所へくるようにいいつけて、ラジオのスイッチを入れた。家にいたのは私と三歳になる弟の三人だけであった。

 父は役所へ、姉二人は学徒動員で出かけていた。兄は志願して予科練に入り、すでに出征していた。緊急放送の前に鳴らすあの緊迫したチャイムの後、いわゆる玉音放送があった。忘れることのできない子供心にも無残な神である天皇陛下のお言葉であった。

 「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非情ノ措置ヲ以ッテ時局ヲ収拾セムト欲シ慈ニ忠良ナル爾臣民ニ告グ・・・・・」放送が終わったとき母は泣いていたが、私は何がどうしたのかさっぱり分からないでいた。その日の昼食はオムライスであった。今でもそのときのケチャップの利いた味わいが忘れられない。

 私、なぜか玉音放送の全文の原稿を持っている。御名御璽まで誤字修正の時間もなく、書き直す間のない原稿そのものである。ここから長く苦しい日本の終戦処理が始まったわけである。

 続く。

食料自給率を高めるために!

2008-02-11 18:15:27 | 政治、経済
 毒入り餃子問題から発生して、日本政府はなぜ農業政策に言及しないのだろうか。この事件の真相、犯人はいずれ明るみに出てくるものと思うが、もしかして真実を隠したまま犯人とおぼしき者を極刑にして葬りかねいお国柄である。

 それにしても日本の安全保障、食糧保障問題はお粗末この上ない。自給率40%弱であることから、世界的な天候異変が起きた場合ひとたまりもなく、日本人の食卓は無残なものとなるかもしれない。  21世紀に入り、日本は本格的な国土保全に基づく農業政策を立案していかなければならないのではないか。

 米作は兼業農家に依存し、雑穀類は海外特に中国に依存し、林業これも海外に依存し続けてきた。  ぼんくら政治家だけにこれからの日本を預けていて果たして大丈夫なのだろうか。権力、金力、蓄財しか考えていないような政治家ばかりではないか。  

 野田だ、佐藤だとまた劇場的演出が始まった。岐阜の選挙民、東京5区の選挙民あなたたちの良識が試されるときになってきた。  経済は凋落の一途をたどり、金融政策は闇の中、庶民の生活は疲弊の限りである。

 もはや何をもしようともしない、すべて他人ごとき感度しか持ち得ない福田(失礼)ごときに任せておいて果たして日本は大丈夫なのだろうか。  すべての国民が自分のこととして、次の選挙を考えてもらいたい。というより考えなければならない。 

生病老死。

2008-02-10 11:49:33 | 暮らし
 今朝の新聞で開業医の嘆きが載っていた。
病院を訪れる年寄りが、ながく生き過ぎてしまったとか生きていく元気が見られないとか生活苦を匂わせる言葉を聞くという。確かに、弱者の切捨てとか、勝ち組、負け組みとかそんな字句が新聞をにぎわせている。

 これから始まる諸物価の値上げ、ガソリン、灯油の高騰、医療窓口負担金の負担増、なけなしのお金には金利も付かない。経済界も政界も証券界も元気が見えない。日本総自信喪失の有様である。

 そんな中、出井伸之先生の「日本進化論」を読んだ。さすがに世界をまたに駆けて活躍したソニーの元会長だけあって、その見識の高さに感銘したものである。

 サブタイトルの「2020年に向けて」にあるとおり10数年後の世の中を予測しておられた。ICチップの日進月歩はすさまじく、ここ数年で現在考えられない製品群が出現するということだ。何しろナノ(1メートルのマイナス9乗)の世界である。

 こんな世の中になったら、歳よりは生きていけないような気がする。難しい世の中になったものである。

 長生きもそこそこがいい。

遅すぎた時太山の無念!

2008-02-07 18:01:51 | 注目の話題
 まずは、斉藤 俊さんならびに親御さんにこれまで良く頑張ってこられたとエールを送りたい。

 改めて、亡くなられた俊さんにご冥福を祈ります。

 名門時津風部屋でどうしてこのようなリンチが起きてしまったのだろうか。
過去にもその他の部屋で稽古中に突然なくなられた関取のたまごたちがいた。その数、十数例と聞くが、今となっては証明のしようがない。

 今回、時太山の親御さんの対応がすべてを決めていた。よくぞ現地での荼毘を断り、そのままでの姿で帰してもらったものと思う。さすが親心の発揮であり、これぞ親の鑑と思える事実であろう。

 今後の審判は、予測できないがこれで相撲フアンは安心してその子弟を相撲界に送れるようになると思うのだが。

 まずは、今後の審判を静かに見守りたい。それにしても愛知県警の初動捜査は何だったのか。疑問の残る課題である。現地の方々の批判の声を聞いてみたいものである。

春が来た!

2008-02-04 13:38:51 | 暮らし
 季節は間違いなく春へ向かっている。庭の花たちは季節の移ろいを早くも察知して、花を咲かせてくれている。人間の五感などはとっくに退化してしまって、毒入り餃子などを食べてしまっている。動物は決して毒のあるものを口にしない。植物も季節を確実に捉えて、花の時期を間違うことはない。時には狂い咲きなどもあるが、それはごく一部のことであり、自然そのものが温暖化の影響を受けていることにもよるのかもしれない。

 地球に生きとし生けるもの、自然を崇め高めて共生を考える時期に来ているように思う。病気にしても然り、すぐに薬を頼り、医者を訪ねて治療に当たる。病院も一箇所ならず、はしごで渡り歩く姿が見られる。自ら保持している自然治癒力を高めることも忘れてやしませんか。

 そんなことを思いつつ、今日は春の花を掲載しようと思う。