あしたはどこへ・・・

後期高齢者だが 元気に豊かな気持ちで歩き続けたい・・

 昭和をプレーバック

2022-07-02 16:35:19 | 日記
 私がの生まれたのは「昭和15年」 妻は「昭和17年」だ。
 その頃の昭和はどんな時代だったか‥興味があってタイムスリップしてみた。

「昭和15年」ヨーロッパではヒットラーのナチスが破竹の進撃を続けていた。
日本でも世界を敵にする大戦争への道を選び始めていたようで戦時色は一層
深待った時代 「贅沢は敵だ」の合い言葉が広がっていて 女性のパーマは
禁止され「鉄兜まき」のヘアスタイルに変わったようだ。 ダンスホール閉鎖
・ネクタイ製造禁止・食料の配給制度・「産めよ増やせよ」が呼び掛けられた。
 だから私は8人兄弟姉妹 妻は9人‥貧しかった時代に産み育てたものだ‥

「昭和16・17年」生活物資不足は続き 米穀通帳で成人は一日2合3勺(300g)の
米の配給 毎月2回は肉なし生活(肉不売) 真珠湾を攻撃して日米開戦で 
ラジオの天気予報発表中止 服装は防空頭巾とモンペ・ゲートルなど非常時に
備える服装 「とんとんとなんがらりと隣組 格子を開ければ顔なじみ 回して
ちょうだい回覧版 知らせられたり知らせたり」の隣組が唄われた。
 「欲しがりません勝つまでは」国民の耐乏生活がより厳しさを増してきた時代だ。

 17年には原爆の製造がアメリカで始まった。男性の出征で全日本婦人の会が 
結成されて 留守の地域と家族を守った。歌は「月月火水木金金」予科練の制服に
「七つボタン」を採用され さらに戦状は厳しさを増してくる。

 我が夫婦の生まれたほんの一瞬の時代だが 何一つ楽しみがない時代に産んで
呉れた事を両親に感謝しなければ・・と 今になって思っている。
 (写真は昭和の記録からお借りしました)

      
      
      
      
コメント (2)
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