街灯の怪人二十面相の看板に惹かれ、名張の町で“江戸川乱歩生誕地碑広場”を探すことにした。
それが・・・
なかなか難しく・・・
さすが怪人二十面相!
@江戸川乱歩生誕地碑公園
日本の探偵小説を創始した作家、江戸川乱歩は、明治27年(1894)、名張の町に誕生しました。生後まもなく転居したせいで、乱歩にとって名張は「見知らぬふるさと」でありつづけましたが、晩年になってようやく「ふるさと発見」が果たされ、昭和30年(1955)には名張市民の手で「江戸川乱歩生誕地」碑が建立されました。碑には、乱歩の略伝と代表作がこんなふうに記されています。
江戸川乱歩(本名平井太郎)は 明治二十七年十月二十一日 当時 名賀郡役所の書記であった平井繁男の長男としてこの地に生れた 大正五年早稲田大学を卒業 同十二年処女作「二銭銅貨」を発表 爾来多くの傑作を著わして日本近代探偵小説を創始しその分野を確立した
代表作
心理試験 人間椅子 パノラマ島奇談 陰獣
石榴 孤島の鬼 黄金仮面
乱歩が名張で過ごしたのは生後7、8か月のごく短い期間で、その後も訪れる機会はありませんでした。乱歩は生まれ故郷がどんなところかを知らないまま成長し、やがて探偵作家としてデビューします。
乱歩は自分が名張生まれだということは知っていましたから、昭和10年(1935)前後、旅行の途中に名張駅で降りてみたこともあるそうですが、知り合いもなく、ただ名張の町を歩き回るだけに終わりました。本格的な帰郷が果たされたのは昭和27年(1952)9月のことです。乱歩は57歳で、探偵文壇の大御所になっていました。
名張を訪れた目的は選挙の応援でした。名張の町で乱歩は熱烈な歓迎を受け、生家の跡にも案内されました。このときの様子は、翌28年に発表された随筆「ふるさと発見記」にくわしく記されています。
昭和27年の帰郷がきっかけになって、名張では江戸川乱歩生誕地碑の建立が企画されました。有志が浄財を募り、乱歩と相談しながら準備を進めました。かつて乱歩の生家があったところに、高さ約1.9メートルの石碑が建てられ、「江戸川乱歩生誕地」という文字のほかに、乱歩の書いた「幻影城」「うつし世はゆめ よるの夢こそまこと」という言葉が刻まれました。
除幕式は昭和30年(1955)11月3日、乱歩夫妻の臨席のもと、盛大に催されました。乱歩は講演会や座談会も行い、香落渓などの観光名所にも足を運んで、名張をあとにしました。翌年発表された随筆「生誕碑除幕式」は、こんな文章で結ばれています。
「たとえ生誕碑にもせよ、自分の碑の除幕式に列するなんて、あまり例のないことだろうと思うが、名張市というところが、従来中央で多少名を知られたような人を、一人も出していないために、私のようなものでも、珍らしがって取り上げてくれたのだろうと思う。市の企画とか、個人の金持の企画とかいうのでなく、町の人々が、自発的に六十年もごぶさたしていた私に対して、こういう好意を見せて下さったのは、実にありがたいことだと思っている」
それが・・・
なかなか難しく・・・
さすが怪人二十面相!
@江戸川乱歩生誕地碑公園
日本の探偵小説を創始した作家、江戸川乱歩は、明治27年(1894)、名張の町に誕生しました。生後まもなく転居したせいで、乱歩にとって名張は「見知らぬふるさと」でありつづけましたが、晩年になってようやく「ふるさと発見」が果たされ、昭和30年(1955)には名張市民の手で「江戸川乱歩生誕地」碑が建立されました。碑には、乱歩の略伝と代表作がこんなふうに記されています。
江戸川乱歩(本名平井太郎)は 明治二十七年十月二十一日 当時 名賀郡役所の書記であった平井繁男の長男としてこの地に生れた 大正五年早稲田大学を卒業 同十二年処女作「二銭銅貨」を発表 爾来多くの傑作を著わして日本近代探偵小説を創始しその分野を確立した
代表作
心理試験 人間椅子 パノラマ島奇談 陰獣
石榴 孤島の鬼 黄金仮面
乱歩が名張で過ごしたのは生後7、8か月のごく短い期間で、その後も訪れる機会はありませんでした。乱歩は生まれ故郷がどんなところかを知らないまま成長し、やがて探偵作家としてデビューします。
乱歩は自分が名張生まれだということは知っていましたから、昭和10年(1935)前後、旅行の途中に名張駅で降りてみたこともあるそうですが、知り合いもなく、ただ名張の町を歩き回るだけに終わりました。本格的な帰郷が果たされたのは昭和27年(1952)9月のことです。乱歩は57歳で、探偵文壇の大御所になっていました。
名張を訪れた目的は選挙の応援でした。名張の町で乱歩は熱烈な歓迎を受け、生家の跡にも案内されました。このときの様子は、翌28年に発表された随筆「ふるさと発見記」にくわしく記されています。
昭和27年の帰郷がきっかけになって、名張では江戸川乱歩生誕地碑の建立が企画されました。有志が浄財を募り、乱歩と相談しながら準備を進めました。かつて乱歩の生家があったところに、高さ約1.9メートルの石碑が建てられ、「江戸川乱歩生誕地」という文字のほかに、乱歩の書いた「幻影城」「うつし世はゆめ よるの夢こそまこと」という言葉が刻まれました。
除幕式は昭和30年(1955)11月3日、乱歩夫妻の臨席のもと、盛大に催されました。乱歩は講演会や座談会も行い、香落渓などの観光名所にも足を運んで、名張をあとにしました。翌年発表された随筆「生誕碑除幕式」は、こんな文章で結ばれています。
「たとえ生誕碑にもせよ、自分の碑の除幕式に列するなんて、あまり例のないことだろうと思うが、名張市というところが、従来中央で多少名を知られたような人を、一人も出していないために、私のようなものでも、珍らしがって取り上げてくれたのだろうと思う。市の企画とか、個人の金持の企画とかいうのでなく、町の人々が、自発的に六十年もごぶさたしていた私に対して、こういう好意を見せて下さったのは、実にありがたいことだと思っている」