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あの日,建水分神社を出て道幅の広い農道を走ると「上赤坂城」への表示が出て来た。
車を駐車場に停めて登山の準備。
本丸まで約20分という看板が立っていた。
片手にはPCでプリントアウトした紙。
下調べもせずに来てしまったので,その紙を読みながら城への坂道を歩くのだ。
以下は,プリントアウトした文章
【「上赤坂城」は、金剛山の支脈の一つで、西北にのびる 標高349.5mの峰にある。
この城は別名楠木本城とも言われている。
城の北側は足谷川、東は井戸の谷、西は城の谷という深い谷に三方を囲まれ、南一方のみが樵路で山づたいに金剛山へと続いている。
北側の城の谷から登る城坂が大手口で、二の丸(東の城)の西側を通り、茶碗原を経て坂を登ると本丸に出る。
茶碗原は陣屋跡で、炊事場のあったところといわれ 、石臼や土器が出土している。
本丸は平坦な台地で千畳敷とも呼ばれ、東・西・北の展望が開け、六甲山や淡路島まで見渡すことができ、点在する出城との連絡が簡単に取れたようだ。
城郭は本丸と二の丸の二つの郭を核に、それぞれ大手方面の尾 根に段下りに連郭している。
茶碗原からも谷に向かって曲輪を重ねているが、蜜柑園として開墾されたこともあり、今は不明瞭になっている。
それぞれの尾根は堀り切られ、特に大手道の通る「そろばん橋」は、二重堀切で土橋状になっているが、元は土橋がなかったのかもしれない。
これらの堀切は相互に連ねていくとほぼ等高の 防御ラインを形成する。
元弘2年(1332)秋の楠木正成の第二次挙兵は、千早城とともに上赤坂城に籠城して戦われたが、鎌倉幕府軍に包囲されて翌年2月に上赤坂城が落城、千早城だけが耐えてついに守り抜いた。
建武政権の崩壊、正成の死後、貞和3年(1347)子の正行を中心に南軍が東条谷に集結して北進、翌年正月、四条畷の戦いで正行が敗死、
弟正儀が赤坂に退いて1年6か月間、高師泰らの北軍と対峙した。
この時が赤坂城塞群整備のピークであったと思われる。
正平14年(1359)、赤坂一帯が再び攻防の拠点となり、翌年5月上赤坂城が落城した。
守り手は最後の詰となる金剛山頂との連絡を軸に城塞の網をはりめぐらし,攻め手はそれと競合しつつ向城の網をはって上赤坂城に攻撃を集中するというのが戦術の基本で、正成の挙兵時以来この形を踏襲して城塞群が発達した。
この城は立地上、金剛山麓の城塞群の中枢という面だけでなく、東条谷一帯の地域支配の拠点として典型的な国人居城の特徴を有しているので、南軍の拠点という歴史的背景がなくなって以後も使われたと思われる。(千早赤阪村史・日本城郭体系12より)】
プリントアウトした文を読みながら本丸への坂道を歩いたら・・・
なにがなにやら???
中世のお城は難しい・・・
この城で出会ったのは,初老の男性3名のみ。
本丸から大阪平野を望みながら,全国各地の城と武将の話をずっとしておられた。
「写真;上赤坂城」
車を駐車場に停めて登山の準備。
本丸まで約20分という看板が立っていた。
片手にはPCでプリントアウトした紙。
下調べもせずに来てしまったので,その紙を読みながら城への坂道を歩くのだ。
以下は,プリントアウトした文章
【「上赤坂城」は、金剛山の支脈の一つで、西北にのびる 標高349.5mの峰にある。
この城は別名楠木本城とも言われている。
城の北側は足谷川、東は井戸の谷、西は城の谷という深い谷に三方を囲まれ、南一方のみが樵路で山づたいに金剛山へと続いている。
北側の城の谷から登る城坂が大手口で、二の丸(東の城)の西側を通り、茶碗原を経て坂を登ると本丸に出る。
茶碗原は陣屋跡で、炊事場のあったところといわれ 、石臼や土器が出土している。
本丸は平坦な台地で千畳敷とも呼ばれ、東・西・北の展望が開け、六甲山や淡路島まで見渡すことができ、点在する出城との連絡が簡単に取れたようだ。
城郭は本丸と二の丸の二つの郭を核に、それぞれ大手方面の尾 根に段下りに連郭している。
茶碗原からも谷に向かって曲輪を重ねているが、蜜柑園として開墾されたこともあり、今は不明瞭になっている。
それぞれの尾根は堀り切られ、特に大手道の通る「そろばん橋」は、二重堀切で土橋状になっているが、元は土橋がなかったのかもしれない。
これらの堀切は相互に連ねていくとほぼ等高の 防御ラインを形成する。
元弘2年(1332)秋の楠木正成の第二次挙兵は、千早城とともに上赤坂城に籠城して戦われたが、鎌倉幕府軍に包囲されて翌年2月に上赤坂城が落城、千早城だけが耐えてついに守り抜いた。
建武政権の崩壊、正成の死後、貞和3年(1347)子の正行を中心に南軍が東条谷に集結して北進、翌年正月、四条畷の戦いで正行が敗死、
弟正儀が赤坂に退いて1年6か月間、高師泰らの北軍と対峙した。
この時が赤坂城塞群整備のピークであったと思われる。
正平14年(1359)、赤坂一帯が再び攻防の拠点となり、翌年5月上赤坂城が落城した。
守り手は最後の詰となる金剛山頂との連絡を軸に城塞の網をはりめぐらし,攻め手はそれと競合しつつ向城の網をはって上赤坂城に攻撃を集中するというのが戦術の基本で、正成の挙兵時以来この形を踏襲して城塞群が発達した。
この城は立地上、金剛山麓の城塞群の中枢という面だけでなく、東条谷一帯の地域支配の拠点として典型的な国人居城の特徴を有しているので、南軍の拠点という歴史的背景がなくなって以後も使われたと思われる。(千早赤阪村史・日本城郭体系12より)】
プリントアウトした文を読みながら本丸への坂道を歩いたら・・・
なにがなにやら???
中世のお城は難しい・・・
この城で出会ったのは,初老の男性3名のみ。
本丸から大阪平野を望みながら,全国各地の城と武将の話をずっとしておられた。
「写真;上赤坂城」
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