大和浪漫

私、瓜亀仙人が奈良・大和路の社寺や自然、生活の様子などをお伝えしたいと思います。

秋の彼岸に牽牛子塚古墳

2010年09月10日 | 明日香村・高取町
朝からTVをつけると,ニュースで「飛鳥」が映ってた。
「牽牛子塚(けんごしづか)古墳」が八角形だという内容。
八角形の古墳は天皇陵の証。
この古墳は,飛鳥中心からかなり西部にある。
私が母の里へと車で行くとき,この古墳の近くを通る。
八角形の古墳か~
たしか,「天武・持統合葬陵」が八角形って聴いたことがある。
母の里へ行くとき,この「天武・持統合葬陵」の横も通過する。
自宅と「天武・持統合葬陵」と「牽牛子塚古墳」と母の里。
自宅と八角形墳と八角形墳と母の里・・・
もうすぐ秋の彼岸,
母の里の墓参に行かんとあかんなぁ~
そのとき,あの車で越える丘にある「牽牛子塚古墳」にも寄ろうと思う。

@今日のニュース【斉明天皇の墓ほぼ確実,牽牛子塚古墳は八角形】
大化改新で知られる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ=天智天皇)の母、斉明(さいめい)天皇(594~661)の墓との説がある奈良県明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳(国史跡)が、当時の天皇家に特有の八角形墳であることが確認された。明日香村教育委員会が9日、発表した。墳丘全面が白い切り石で飾られ、内部の石室も巨大な柱状の切り石で囲われた例のない構造だったことも判明。斉明天皇は巨石による土木工事を好んだとされ、被葬者が同天皇であることがほぼ確実になった。

@天武・持統合葬陵
檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)と呼ばれるこの天皇陵は、天武天皇と皇后持統天皇の夫婦合葬陵です。686年(朱鳥1)9月、病により崩御した天武天皇のために翌年の持統天皇元年(687)持統天皇により築造され、天武天皇を埋葬しました。天武天皇は壬申の乱に勝利し皇位に就き、兄である天智天皇の遺志を継いで、中央集権国家の形成を推し進めました。天武帝亡き後は天武天皇の皇后であり天智天皇の娘である持統天皇が即位し遺志を継ぎ中央集権国家の確立に尽力。また、藤原京の造営を行っています。天武・持統陵は、藤原宮の南方中軸線上に営まれ、八角形の五段築成と考えられています。702年に亡くなった持統天皇は、大化薄葬令により天皇としては初めて火葬され大宝3年(703)に夫婦合葬した記録が日本書紀に残っています。1235(文暦2)年に盗掘された際の実検記である『阿不幾及山陵記』に記された記事と、『日本書紀』『続日本紀』などの記述が一致したため、天武・持統合葬陵であることが確定しています。

「写真;八角形墳の天武・持統合葬陵」
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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
牽牛・・・ (山口ももり)
2010-09-12 06:21:56
牽牛子でけんごしと読むって、なんかいい響きですね。それにしてもきれいな青空です。
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アサガオ (瓜亀仙人)
2010-09-12 11:46:27
ももりさんへ
アサガオの名前の由来は、生態が短日性で、開花時間は朝だけなので、この名で呼ばれました。
中国では、本草綱目(ほんぞうこうもく・1596)に、王の大病をこの種子で治して謝礼にと、当時は財産であった牛を与えられて、牛を牽(ひ)いて帰ったということから、漢名の牽牛子(けんごし)とつけたという記述があるそうです。
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