一昨日の朝の当麻寺。
まだ本堂の扉は開いていなかった。
中将姫の像を囲む生垣には,バリカンを持った植木職人さんが作業中。
西塔を望む松の木の上にも職人さんが,
本堂を正面に1対の作業車両。
石灯籠との並びが素敵やった。
@当麻寺
当麻寺(正しくは「當麻寺」と表記)は、もと河内国に建立された万法蔵院を前身寺とする。
推古天皇20年(612)に、用明天皇の第三皇子麻呂古親王(当麻皇子)が兄である聖徳太子の教えにしたがって創建したもので、現在大阪府太子町にその跡地伝承地がある。
その後、麻呂古親王の孫にあたる当麻真人国見が霊夢にしたがって、役行者練行の当地へ遷造。
禅林寺と号し、白鳳九年(681)に弥勒仏を本尊として創建されたのが現在の当麻寺である。
白鳳時代から天平時代にかけて、金堂の他、講堂、東塔、西塔といった伽藍堂塔が建立され、周囲には中院(現:中之坊)をはじめとする僧坊が整えられていき、平安時代には四十余坊を数え、江戸時代の記録にも三十一坊が記されている。
当初は三論学を中心とする奈良仏教の学問寺院であったが、弘仁14年(824)に弘法大師の参籠を仰ぎ、真言密教が伝えられた。
それにより修法、祈祷、観想などの実践を重んじる密教寺院として変化を遂げ、十一面観音像(重文)、妙幢菩薩像(重文)、紅頗梨色阿弥陀如来像(重文)など優れた密教美術を遺すことになる。
また、天平時代に成立した当麻曼荼羅は、中将姫の尊い故事とともに広く信仰を集め、次第に弥勒仏を凌いで本尊と呼ばれるまでになった。
今も、練供養会式や蓮華会、髪供養会といった伝統行事、中将姫の誓願に基づく祈願会や写仏会など、当麻曼荼羅は当麻寺の信仰の中核をなしている。
さらに、阿弥陀如来の極楽浄土を壮麗に表すこの当麻曼荼羅は、浄土宗知恩院の羨望するところとなり、南北朝時代に当麻寺の裏手に往生院(後に奥院と称す)を建立して二百余名の浄土僧を派遣した。
中之坊や西南院などの中核の塔頭寺院が改宗に応じなかったため、当麻寺は真言宗のまま存続したが、このことを起源として真言宗寺院の当麻寺に浄土宗寺院も加わることになっていく。
まだ本堂の扉は開いていなかった。
中将姫の像を囲む生垣には,バリカンを持った植木職人さんが作業中。
西塔を望む松の木の上にも職人さんが,
本堂を正面に1対の作業車両。
石灯籠との並びが素敵やった。
@当麻寺
当麻寺(正しくは「當麻寺」と表記)は、もと河内国に建立された万法蔵院を前身寺とする。
推古天皇20年(612)に、用明天皇の第三皇子麻呂古親王(当麻皇子)が兄である聖徳太子の教えにしたがって創建したもので、現在大阪府太子町にその跡地伝承地がある。
その後、麻呂古親王の孫にあたる当麻真人国見が霊夢にしたがって、役行者練行の当地へ遷造。
禅林寺と号し、白鳳九年(681)に弥勒仏を本尊として創建されたのが現在の当麻寺である。
白鳳時代から天平時代にかけて、金堂の他、講堂、東塔、西塔といった伽藍堂塔が建立され、周囲には中院(現:中之坊)をはじめとする僧坊が整えられていき、平安時代には四十余坊を数え、江戸時代の記録にも三十一坊が記されている。
当初は三論学を中心とする奈良仏教の学問寺院であったが、弘仁14年(824)に弘法大師の参籠を仰ぎ、真言密教が伝えられた。
それにより修法、祈祷、観想などの実践を重んじる密教寺院として変化を遂げ、十一面観音像(重文)、妙幢菩薩像(重文)、紅頗梨色阿弥陀如来像(重文)など優れた密教美術を遺すことになる。
また、天平時代に成立した当麻曼荼羅は、中将姫の尊い故事とともに広く信仰を集め、次第に弥勒仏を凌いで本尊と呼ばれるまでになった。
今も、練供養会式や蓮華会、髪供養会といった伝統行事、中将姫の誓願に基づく祈願会や写仏会など、当麻曼荼羅は当麻寺の信仰の中核をなしている。
さらに、阿弥陀如来の極楽浄土を壮麗に表すこの当麻曼荼羅は、浄土宗知恩院の羨望するところとなり、南北朝時代に当麻寺の裏手に往生院(後に奥院と称す)を建立して二百余名の浄土僧を派遣した。
中之坊や西南院などの中核の塔頭寺院が改宗に応じなかったため、当麻寺は真言宗のまま存続したが、このことを起源として真言宗寺院の当麻寺に浄土宗寺院も加わることになっていく。
ご存じでしょうけれど、中将姫の誕生の地が奈良市にあります。我が家からは東1.5kmくらいかな、それも最近知っただけなのですが。
http://www.mario-k.net/nara/shaji/57.html
それが・・・
それぞれの僧坊のお庭は,手入れが行き届いていると思うのですが・・・
中将姫の誕生の地が奈良市にあるのは知っているのですが,まだ訪ねたことがないのです。